手錠

 今日、旦那の爪を切りました。彼がけして私を傷つけたりしないように。

 はじめて旦那に犯されたとき、それは本当にひょんな事件としか呼べない、そんな種類のものだったのです。 私は私にしては考えられないほどの長い間、自分の中に男を招きいれておらず、そして彼もまた、自分自身を女の中に埋め込まずに月日を費やすという愚かさで。
 大雪だからとても帰れない。そんな見え透いた嘘をついた男は、立派な四駆で私をドライブに連れ去ったという行為を超えるほど枯れ果てていたのでしょう。 そして、1時間前に飲んだ口当たりのよい日本酒のせいで、私はプライドだとか好みだとか、そういうものを度外視するほど、股間を鋭敏にさせていたのです。
 それは本来ならば、そういう種類のハプニングでしかなかった、そういう出来事なのだと、今でもそれはもう、信じているのです。

 もし彼の爪が、うっかり私の肌を傷つけたとしましょう。 そんなことになったら、きっと誰より悲しむのは旦那自身。そして私は誰よりも旦那の落ち込む顔を見たくないのです。ですから私は週に1度、彼の爪を切ってあげます。目も眩みそうな喜びさえ伴って。
 私たちのB.G.V.は、たいてい、旦那の大好きなC級アクション映画、それのテレビ放映。 旦那は、テレビと爪切りとのコンビネーションにとてもご機嫌で、そうね、まるで王様みたいにふんぞりかえって、爪を切られていきます。
 三日月の形した爪のかけらたち。それが量を増していくごとに、私は自分が旦那を侵食していくのを確信するのです。 私がいなければ、もはや彼は爪さえ処理することができない。その事実は、なんと私を幸福にさせることか!
 そして、従順な妻であることの私には、旦那だけに短い爪を強要するなんて、そんな。
 ですから、旦那の両手両足の爪、それらを丁寧に切って、やすりがけした後、自らの爪にもそれを施していくのです。 だから私の爪はいつだって小さな子どもみたい。ぽっちりお利巧にしています。
 そしていかれたベッドシーンと派手なだけのアクションシーンを寄せ集めた映画が終わると旦那はさも当然のように私の手首を掴みます。
 だめ。そんな気分じゃない。
 言いかけて、それでも口をつぐんでしまうのは、旦那の座りきった視線のせいでもありませんし、ましてや彼の足の根元が既に灼熱に膿んでいるからでは、決してありえません。
 その手が。
 私は恍惚に、さしあたって両目をきつく瞑らざるを得ないのです。
 その手が悪いのよ、いつだって。

 はじめての男性は映画をアイデンティティにしていました。次の男は私よりギターを大切にしていました。その次の男は言葉の継ぎ目ごとに作家の名前を口にする人でした。
 無精ひげのように見せかけて、実はものすごく計算されたそれだったり、もしくはもっとも自分を魅力的に見せる帽子の角度を把握しきっていたり、バーテンとあだ名で呼び合える行きつけのバーを持っていたり。 今まで私の体を押しつぶした男たちは、いつだってそう。優しくて気難しくて、女をうっとりさせる横顔。
 清潔な指の先で煙草をつまんで、難しい話ばかりして。時に私は彼らに幼稚な質問をしてみせ、彼らは私を馬鹿にしつつも愛しく思ってくれました。
 そういう男たちは、みんな決まっていい匂いがしたものです。ふんわりとユニセックスの香水に包まれ、私は自分をお人形さんのようだと思いました。
 彼らは綺麗な手をしていることが多かった。女性と見間違うようなその指先。爪もいつだって綺麗に刈りそろえられ、垢がたまっているのなんて見たこともありません。それで私をふわふわと天国に導きます。
 私は綺麗な手の男たちに合わせた長い爪を自慢にしていました。いつだって磨かれ、色を塗られ、時にはラインストーンまで輝かせていた私の爪。でもそのせいで彼らとの夜はいつも大変。その体を傷つけないように、小指で耳たぶを触れるのにも気を使う有様。なのに男たちは私の苦労など知らず、今日の口紅似合ってないよ、なんて。ひどい。

 旦那はいつだって同じ手順で私を犯します。それはふたりの不文律。まずは私の手首を掴んで。
 実は初めての夜、いざというときになって、私の腰はひけてしまったのでした。私、本当にこの男と粘膜をこすりあわせるのだろうか。本当に? この醜い、趣味の悪い、冴えない男と、この、私が?
 多少不愉快な思いで、彼に掴まれた自分の手首を見たのも事実です。確かに私たまってる。だからって、何もあんたみたいなのとやることなんて、ない。それもこんな無粋なやり方で。
 そう思った私が、彼の手を……いえ、正確には爪です。彼の爪。それを見た瞬間、哀れ、目の前の男を激しく欲してしまうとは。一体誰が予想したというでしょう。
 私は旦那の奴隷に成り果ててしまったのです。自ら、それを望んだのです。
 爪の間の真っ黒な垢。そんなのずるすぎる。気を取り直して旦那の顔をまっすぐ見つめなおす彼の愚妻であることの私。そこには脂の浮いた頬だとか、顎鬚の剃り残しだとか、はれぼったい一重だとか。そしてテレビは軽薄なCMソングを鳴らし続け。ああ、罠だらけ。もはやうっとりするより他にないではありませんか。ずるいな、と思い、それでも抗えず。そんな私は誰よりも幸せな女なのだと、そう思います。
 いつでも納豆の匂いがする彼の舌。指の間を舐められて。
 もう瞳潤んでるよ、だなんて、すごく陳腐。もしこれが映画だったら笑っちゃう。でも陳腐ってことほど、上等なもの、この世にない。
 最後にそれだけ思って、私はずるずると彼の舌に身を任せていきます。意識を手放しても、ありがちなあえぎ声だけは忘れないようにしましょう。旦那様のお好みに合わせて、ね。

 旦那が私をはじめて犯した夜。私はようやく自分がどこに立っているのか、知ることができたのです。
 その夜も私の手首を乱暴に掴んだ手には、やはり垢のたまった爪がくっついていました。そんな爪が生えたこの短い指。今から私の体を侵食していく。私は自然に鳥肌を立てていました。今から自分は犯されるのだ、そう思いました。
 対等な関係? 高めあう2人? ああ、なんて今まで、瑣末なことにこだわっていたのでしょう。なんて、くだらない。 本当の快楽はここにある。汚い男に犯されていく私。この無粋な男に、ヒィヒィ言わされて、濡らされて、理性を吹き飛ばす私。たとえば雪の降った朝、足跡でそれを台無しにしていく快感。
 それでもけして汚れない私。たとえ愚かな男に犯されても、私の精神は私のまま。悲しくてもろい雪粒なんかじゃ、ありえない。
 ああ、私の大切な旦那様。あなたはそれを教えてくださいました。あの夜あなたは私に枷をはめたのです。汚い爪、という枷。それをしっかり私の手首に巻き付けて、だのにそんなこと少しも気づいてない愚かで愛しい私の旦那様。でもこんなふうに思ってるなんて、一生教えてあげません。そう、私だけの秘密。
 僕は確かに見た目はあんまりさ。でも君は僕の性格に惚れてくれてるんだよね? だなんて、もう。やめて、そんな大真面目な顔で。笑いをこらえるのに必死になっちゃうわ。
 だって私はあなたより、数段、高貴で高潔な、奴隷なのですよ?
 そして、心から思っているのです。あなたに会えてよかった。
 あなたに会えてよかった、と。


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