思い出

 「好き」だとかそうでないとか、未だによくわからない。なのに私たち女は驚くほど幼いころから、異性をふるいわけるという高等技をしてのける。それをどうしても習得できない私は、なんとなく孤立しながら少女時代を過ごしてきた。
 そんな私が何の因果か、受けた大学すべて落ち、さてと、と入った予備校で、いきなり告白とやらをされてしまった。後に聞いたところによると、その時の私はまるで鯉みたいに口をぱくぱくさせていたという。思わず餌を与えようかと思ったよ。そんなふうにコンドーくんは笑い、でも代わりにキスしちゃったけどね、と、コンドーくんは照れる。
 ひょんと奪われたファーストキス。私はさほど動揺せず、かえって落ち着いて彼の瞳を見つめた。
「私、好きとか嫌いとかよくわかんないんだよね」
「じゃあ、他に好きなヤツがいるとかじゃないんだ」
「うん」
「だったら、とりあえずつきあってみよーよ」
 断る理由が思いつかなくて、だから「とりあえず」頷いてみた。コンドーくんは目を糸にして笑った。そして私は初めての恋人を得た。

 断る理由がないという理由で、自習も講義もお昼もいっしょ、週末は遠出、キスはだらだらとディープなものになり、その延長でセックスもしたけれど、やっぱり私はどうしてもコンドーくんを好きだと思えなかった。
 それとは裏腹にコンドーくんはどんどん沸騰していった。彼の左手はいつも私の右手につながれ、彼の右手はどれだけ断っても、ほとんど無理やりに私の鞄を抱えていた。私の隣にさえいれば、どんな時だってにこにこにこにこしていて、きっとあまり頭が良くないのだろうと私に決め付けられていた。
 帰り道は当たり前のようにラブホテルに寄った。コンドーくんのお小遣いの使い道が実は参考書なんかじゃないということ、全く知らなかったであろうご両親に心が痛む。
 でも私もラブホテルだけは好きだった。ダブルベッドとソファとテーブルとお風呂とトイレ。すべてがセックスのためだけに存在しているという機能的なところが、なんとも清清しいではないか。
 ラブホテルに入っても、しばらくおしゃべりしようとする、そういうコンドーくんは、逆に無駄が多すぎる。いつだってさっさとお風呂に入り、裸のまま出てくる私に、彼は目をぱちくりさせていた。
 それでもコンドーくんが自分を求めていることを知っていて、私は小さな女王様だった。強く強く抱きしめられて、体中に口付けされて、それを当然と思っていた私。私に進入して、滑稽に腰を振るコンドーくん。それを冷静に眺める私。きっとそういうことだった。

 つきあってれば、いつか好きになってくれると思ってたんだけど、でも、無理なものは無理だったみたいだね。
 コンドーくんは笑っていた。愚鈍な私はその時になってようやく、この人の笑顔が涙を意味していることに気付いたのだった。
 断る理由がなかったもので、私はあっさり彼から離れた。そして私は初めての失恋をした。もうすぐセンター試験、という時期に、私たちは2度と会わないことを決め、馬鹿が馬鹿を馬鹿にする恋愛もどきは、そんなふうに幕を閉じた。
 私は滑り止めになんとか引っかかり、彼は2年目の浪人をすることになったと噂で聞いた。噂は私の悪口を含んだものだったけれど、相変わらず心が揺れなくて、そういう自分は問題だという気もした。けれどすぐに忘れた。
 ただ1つだけ困ったことがあった。
 晴れて大学入学が決定し、それから入学式までの暇な時間、私にはすることが何もなかったのだ。
 いや、昔はそうだった。友人も恋人もいない私は暇に慣れていたはずだ。いつだって1人でぼんやりした時間を楽しんでいた、そういう私がいたはずなのに。
 一瞬で答えはわかった。ラブホテルだ。機能的な空間で、体温を擦り合わせることは、私にとって、私が感じていたより、重大なことだったのだ。
 愕然とした。
 この私が他人を必要としている。それは確かにコンドーくんじゃなくてもよかったかもしれない。けれど、誰かは必要なのだ。今までの自分にはなかった感情だった。
 コンドーくんの垂れた目尻が懐かしかった。股間がしっとりと濡れていく。コンドーくんは私を濡らすのだけは得意だった。その証拠に別れた後でも、それをしてのける。
 また会いたい。コンドーくんじゃなくてもよかった。私をラブホテルに連れ込んで、愛しんでくれる誰かに、また、会いたい。

 いい歳こいた私を夫は時々「姫様」と呼ぶ。
「姫様は本当にわがままだから」
 言いつつ、すごく嬉しそうな顔で、私の鼻をつまむ。
 本当は鼻をつままれると、鼻水が流れ落ちそうになるし、なんだか痒いし、全くもって嬉しくない。けれど私は、照れたように笑ってさえみせるのだ。
 セックスをねだると、必ず夫は私をわがまま呼ばわりし、そのくせほいほいと裸になる。本当に簡単な人だと思うけど、馬鹿にする代わりに笑っておくのは、ようやく私も必要なものを手放さない技術を身に付けたからだ。
 例えば口が裂けても夫には言わないと決めていることがある。
 私は未だにコンドーくんを思い出す。それはたいてい生理前の夜。私の中のコンドーくんはいつもラブホテルにいて、いつも泣きそうに笑っている。そしてそれを思い出すと、途端に股間がぎゅんと濡れてしまう。だから私は夫におねだりするのだ。彼はそんな私をわがままといい、そんな私を気持ちよくさせている。
 もしかするとこれが「好き」というものなのかな、と思う。
「誰か」を失いたくないという気持ち、それで嫌なことを嫌と言えなくなること。
 それとも、とうの昔に別れたはずの男を、いつまでも思い出しては、股間を濡らしていること。
 どちらにしろ私はもう恋を知らない女ではないのだろう。キスをされた後に落ち着いていられるほど純粋な自分は、恋のせいでどこかに行ってしまったのだ。


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