春の呪い

 去年の夏休みっきり失踪していた親友がひょっこりと我が家に訪れた。話を聞くと、なにやらずっと世界中を旅していたらしい。
「よくそんなお金あったね」
「うん。で、これ、おみやげ」
 大学を除籍処分されたことを知ってか知らずか、いつもの無表情で何やら汚い包みを手渡さす我が友人。私はこっそり呆れ果てながら、それを人差し指と親指でそっとつまんだ。
「なにこれ?」
「なんか、呪術に使うらしいよ」
「ジュジュツ」
 耳慣れない言葉にきょとんとしながら「いかにもバックパッカー」女の瞳を覗く。
「これで、人を呪い殺せるらしいよ」
「へえ」
 それはいいけど、なんでそんなもん私にくれるんだ?
「んじゃ、これで」
 相変わらず無愛想なまま、彼女は唐突に私のアパートを出て行った。用は済んだ、ということなのだろう。薄汚れたジャケットの肩に桜の花びらが1枚ひっついていて、妙に牧歌的だ。そんな彼女を無言で見送りながら、久しぶりなのにそれはないだろ、とちょっとだけ思う。ま、彼女のそういうところが好きなのだが。
 彼女と彼女の花びらが見えなくなってから、もう一度、右手の黒ずんだ包みをしげしげと見つめる。それはただただ汚ならしかった。

 部屋に戻って、早速包みを開いてみた。中には羊皮紙に文字がのたくた這っているのと、どう見ても黒胡椒にしか見えない粉末が入っていた。もう少しで爆笑するところだった。
 だが、しばらく考えて、恋人に電話することにした。
「あの子、さっきいきなり家にきたよ」
「ふぅん。今まで何してたって?」
 彼はいつだって単調に答える。
「海外旅行だって。おみやげもくれた。で、今日はいつごろ来るの?」
「うーん。夕方には」
「じゃあ、ごはん作っておくね」
「サンキュ」
 恋人は感情をまったく見せないまま、電話を切った。どうも私は喜怒哀楽の少ない人間ばかり自分の周りに置きたがるらしい。
 今日の献立は彼が比較的喜ぶ、ハンバーグにしようと思う。

 恋人は約束どおり夕方すぎにふらっと現れ、ちょうど出来上がった私のハンバーグを前に、静かに食卓についた。彼もまた紺色の木綿製ニットの肩に桜の花びらをくっつけていて、妙にコミカルに見えた。
「いただきます」
 ふたりで静かに箸を取る。私たちは普段からあまり会話をしないし、食事中にはもっとだ。お互いに食べることに集中してしまうからだが、でも今日だけはちょっと話しておきたいことがある。彼がハンバーグを飲み込んだのを契機に、私は話し掛けた。
「あの子さ、ずっと海外旅行してたんだって」
「うん。さっき聞いた」
 彼はこちらを見ずに頷く。
「よくそんなお金あったよね」
「バイトたくさんしてたんだろ? 確か」
「まあね」
 話が終わりかけたのに、なんとか気を立て直して続ける。
「あの子さ、夏休みからいなくなったじゃん」
「うん」
「あんたが私を家に入れてくれなくなったのって、ちょうどその頃だよね」
 彼は無言のまま、ハンバーグを口に放り込む。
「で、あんたがまた家に呼んでくれるようになったのが、この春休み」
「……で?」
 恋人は決してこちらを見ようとしない。おかげで話しやすいことは話しやすいのだけど。
「あの子が海外旅行に行ったってのは嘘じゃないと思う。だって、本当に汚い格好してたしね。ただ、夏休みからずっと行ってたわけじゃないだろうなってちょっと思ったの。だってそんなにお金持ってないはずだもん」
「そんなんわからないだろ」
 また、ひと口。彼はハンバーグを食べる。それが喉を通り過ぎていくのを見届けてから、
「一応、私、あの子の親友だったからね。そのくらいわかる」
 また、ひと口。
「推測でしかないけど、あの子ずっと日本にいたんだと思う。きっと、学校よりも私よりも大切なことができて、それで姿をくらましてたんじゃないかな」
 私はちょっと首をかしげた。
「私よりも大切なこと、じゃないかも。私になにか隠したいことがあったからかも」
「ちょっとぴりぴりするな、このハンバーグ」
 恋人はいつもの無表情でぼそっと呟いた。それを無視して話を続ける。
「でもってね、その後ろめたい何かから開放されたのは、けっこう最近だと思うんだよね。でもそれってきっと彼女の意に沿うものじゃなかったんだと思う。だから彼女はそれを吹っ切るために遠いところに旅立った」
「らしくないな」
「らしくないね。でもそれが恋ってやつかもしれない」
 恋、と言うとき、心臓がちょっと痛んだのを感じた。でもぎりぎりのところで気力を奮い立たせて、先を続ける。
 ここからが肝心だから。
「彼女のおみやげね、笑っちゃうんだよ。呪術に使う道具とやらをくれたの」
「ジュジュツ」
「うん、なにやら人を呪い殺せるらしい」
「ふぅん」
「きったない包みに入っててね。開いてびっくり。中身、どう見ても黒胡椒なんだ」
「へえ」
「で、その黒胡椒ハンバーグに入れてみたんだけど、そんなにしょっぱい? これ」
 ようやく恋人がこちらを見たのを確認して、にっこりしてみせる。
「私、まだひと口も食べてないから、わからないんだ」
 彼があからさまな恐怖の表情を浮かべるのを初めて見ることができて、私は心底満足だった。


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