真夜中の

 好きになった今でも彼のことは「好きじゃない」。
 まるで女の子みたいな指も、それがつまんで持ち上げる、度の入ってない眼鏡の弦も、笑うときに左側がゆがむ唇も。
 メールの返事をくれないことも、携帯に着信残しているのにかけ直してこないことも、そしてそれが「いつも」だったらいいのに、気が向いたときにだけ反応があることも。
 彼に他の女の子がいることも好きじゃない。何より彼と知り合ってから、以前よりずっと不幸になったような自分も好きじゃない。
 だからこれは世間で言う恋愛ではなく、シンプルな執着なのだと思う。
 真夜中、自分を刹那的にでもかわいがってくれる男がいるという、その状況に飢えているだけなのだと思う。もし満たされたら、私はかえって彼への興味を失うだろう。

 初対面から彼は私に文学談義をふっかけてきた。品のいいインテリアのお店だったら、のんびりとアルコールを楽しむべきだと思うのに、彼ときたら全く色気がない。そう抗議すると「君だったら、こういう会話についてこられると思って」だそうだ。
 そもそも私はここで白けるべきだったのだ。実際、今まで、この手の男は身の回りから排除してきた。だって彼らは「格好いい」の定義づけを間違えているとしか思えないから。肥大した自意識の相手をするほど私は寛大ではない。
 ただ、彼のときだけ別だった。いつもだったら、こんなこと言われたが最後、適当に笑いながら、いつ逃げ出すかを算段しはじめるはずなのに、彼の伊達眼鏡ごしの一重にじっと見つめられた時、自分の喉元がぎゅんと締め付けられるのを感じたのだ。

 風呂上りに髪を乾かしていたら、携帯電話がまぬけた音楽を流し出した。ドライヤーを切るのももどかしく、携帯電話に飛びつく。折りたたみ式のそれを慌てて開き、画面を見たとたんに落胆した。他の男の名前だった。ぶっきらぼうになりすぎないよう注意して、ドライヤーをみじめったらしく振り返りながら、着信ボタンを押した。
「はい」
「あ、マユちゃん?」
 それは私が精神のバランスを保つために所有している男だった。自分という存在が重くなりすぎないよう、そのためだけに縁を切らないでいるこの男は、多分、私のことを好いていた。
 なにしてたん? の質問に、まさか「他の男の電話を待っていました」とは答えられず、私は適当にお茶を濁す。
 ふと、自分が薄く笑っているのに気づく。媚だ。気付いた瞬間笑みが苦いものに変わる。他人の力を借りてまで、彼に依存しすぎないようにしている私という女は、なんて卑しい醜いものだろう。

 もし彼の電話があったらと思うと、あまり長々と電話する気になれなかった。
 ドライブの誘いを曖昧に笑ってごまかして、私はさっさとその電話を切った。この男から電話がかかってくるたび、情けない気分になる。
 一生懸命に私を誘う男。それを5回のうち4回は煙に巻く私。だったらそもそも電話に出なければいいのに、それでも出る私。
 なに馬鹿なことやってんの。昔の自分なら私みたいな女を見て、こう言うだろう。どうして自ら泥沼にはまりこもうとするの? わかってるんでしょ? 今の自分が醜いってこと。
 うるさいな、わかってるよ。でもね。
 自分への長い長い言い訳をつむごうとした途端、また、携帯が鳴った。
 しつこいな。まだあきらめないのかドライブ。舌打ちしたい気分で液晶画面を見る。
 彼だった。
「なにしてた?」
 どうしよう。同じ言葉なのに、こんなにも心の震え方が違うだなんて。
 今から家に来ない? その台詞は耳を素通りして、そのまま心臓に落ちたかのようだった。
「そ、そんなこと言っても……」
 もう終電もないし、タクシー呼ぶお金もないし。
 もごもご答える私に、彼は冷たく笑うのだ。
「無理強いはしないよ?」

 その電話から15分後、超特急で身支度を整えた私は、ものすごい勢いで自転車を漕いでいた。
 彼の家まで30分もあれば着く? いや、もう少しか。
 深夜に自転車を暴走させる私は、端から見たらどうなんだろう。きっと滑稽を通り過ぎて、恐ろしいほどかも。
 それでも私はペダルを漕ぐ勢いをゆるめる気になんてなれないのだ。
 あ、汗で化粧が流れていっちゃう。彼の玄関についたら、インターホン押す前に、まず化粧直ししないと。
 それからインターホンを押す。彼はなんともないような顔して、そのドアを開ける。私の顔を認めると、いつもの皮肉っぽい笑い方をする。
 それを想像しただけで、余計、心臓が高鳴る。
 前よりずっと不幸? 私の嘘つき。普段はほとんど乗らない自転車を暴走させといて、不幸だってか。
 恋愛かどうかなんて、やっぱりわからない。それでも今この瞬間だけでも、私は満たされている、と思う。それで、いいのだ。


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