ラブ・スコール

 ひどくめんどくさく結ばれた靴紐を解いて、ようやく部屋に上がった途端、携帯電話がルパン三世のテーマを歌いだした。耳なじみのあるアニメソングは私にとって忌み嫌うものと成り果てている。
 とっくにキッチンに立っていた私は、ある種の悟りと共にコーヒーの準備の手を止め、そんなあなたの様子を伺う。
 あなたは難しそうな顔で、電話に何度も頷いている。
「ごめん、急に仕事が」
 手持ち無沙汰な指先でシンクにリズムを刻みながら、電話を切ったあなたを想像する。申し訳なさそうに、そのくせ気難しい表情で、絶対そんなふうに言うに違いない。
 やがて忌まわしい電話は終わり、あなたは思ったとおりの表情で、思ったとおりの台詞を私に告げた。違っていたのは最後に付け加えられた「埋め合わせは必ず」だけ。
 一瞬にして部屋に落ちる沈黙。
 だけど私は、ひとつのため息で嫌な空気を全部押し流してみせた。
「せっかくだし、お茶くらい飲んでいかない?」
「ごめん、急ぎなんだ」
「もうほとんど用意しちゃってるの」
 大嘘。
 あなたはでも私のあからさまな嘘に騙されたふりをして、どっかりとソファに腰掛けてくれた。
「確かにお茶の1杯くらい罰は当たらないな」

 私たちは恋人どうしではない、と思う。でも言語による意思表示こそしていないものの、お互いにお互いを悪しからず思っていることを、お互いに知っている、という関係。駆け引きしあう時期もとうにすぎ、あとは「やることやっちまう」だけで、これはいつでもスタートできるだろう。
 ただ、どうしたことか、そういう状態になって3ヶ月、私たちは幾度も「やることやっちまう」のに失敗している。機会はいくらでもあった、というより、意図的に機会をひねり出してきた。なのに毎回なんらかの邪魔が入り、お互いを抱き合うための腕は、中空に放り出されたまま現在にいたる。
 やれ曽祖父の兄弟が死んだ、とか、やれ親友が失恋して自棄になっている、とか。中でも断然多いのは、お互いの取引相手の我侭。おかげで私たちの逢引はいつも中途半端に終わっている。
 これは運命かとも思う。私たちが恋人同士にならないためだけに、この世の何もかもが仕組まれているのか。
 ただそんな理由で他の男と仕切りなおせるほど若くもないし、それが許されないほどには、あなたに惚れ込んでしまっている。
 私はただ、お互いの携帯が鳴らないように、鳴らないように、祈ることしかできないのだ。

 安物のソファに並んで、熱いコーヒーを喉に流し込む。言葉がみつからなくて黙り込んでしまうのは仕方ない。私たちはこういう状況で交し合う言葉をとうに使い果たしているのだ。
 そっと横目で伺うと、あなたの喉仏の描く稜線がコーヒーを飲み込むたびにきくんと震えるのがわかる。それを見ながら涙で視界がぼやけてくるのがわかった。そしてあなたがそんな私に気づかないふりをしていることも。
「そろそろ行くよ」
 あなたがこちらを見ないまま立ち上がるのに、かえって安堵するのは、今、あなたが振り返ったら、私たちはもう留まることができないから。
 狭い玄関にかがみ込んで、めんどくさい靴紐を再び結びなおすあなた。思えば私たちはお互いの背中ばかり見ている気がする。背中を見送って見送って、その度に思いは募っていく。
 そこでようやく、ああ、と気づいた。これは私たちを離れ離れにする運命じゃない。巧妙に仕組まれているのは、むしろ。
 気づいた次の瞬間、あなたの背中にしがみついていた。驚いて振り返るその唇にキス。
「つかまえた」
 そんな私にあなたは苦笑いして、それでもキスを返してくれた。あはは、そういえばキスしたのもこれが初めてだ。中学生か私たちは。
「明日は空いてたっけ?」
 耳元で聞くあなたに私は気の抜けた笑いを返した。
「ごめん、仕事入ってる」
 お互いにため息をついた後、あなたはようやくよいしょ、と立ち上がった。
「そいじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「絶対そのうち滅茶苦茶にしてやるから、覚悟しとけ」
 ろくでもない台詞と共に、鉄製のドアがばたんと閉まった。

 ばーか。そんな覚悟、とっくについてるよ。


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