幸福な人生

 うちのクラスの委員長ほどの「委員長」を俺はいまだ見たことがない。
 彼女はぴしっとストレートの髪でいつだって澄ましてて、決して失敗しないかわりに、大声で笑うこともない。そういういけすかない女だ。
 時々、教室の花瓶に花とか生けてやがったりして、それがますますいけすかない。落ちこぼれの俺は、彼女の姿を目の端に捉えるだけで、いらいらが止まらないのだ。

 それは期末テスト前だった。ツレから借りたノートをあっさり教室に忘れてきた俺は、自分を呪いながら夕暮れの教室にダッシュしていた。
 てっきり無人だと思い込んでいた教室に委員長の姿を見つけたとき、俺は驚くというより、混乱したものだ。
 なんたって、この優等生がこんな時間にこんなとこにいるんだ?
「忘れ物?」
 窓のさんに腰掛けて、委員長は眉ひとつ動かさずに俺に問う。いつもの澄まし顔にむっとしつつも、これが彼女とのはじめての会話になるのかもしれない、と、ぼんやり思った。
 それに、れっきとした高校生を捕まえて意外というのもおかしいが、彼女は両耳にヘッドフォンを押し当ててさえいるのだ。
 この女も音楽なんて聞くんだ。半ば呆然と委員長の夕日に染め上げられた輪郭を見守る。
 いやいや、待て待て。あれはきっとクラッシックだ。そうに違いない。くらっしっくくらっしっく。

「忘れ物?」
 再び同じ質問をされ、ようやく我に返った。
「ああ。イインチョーのほうこそ何してんの? 家に帰って、お勉強しなくていいわけ?」
 委員長はふっと肩をすくめてみせた。その仕草に頭がカアッとする。
「だって毎日復習してれば、テスト前だからって、わざわざ勉強しなくっていいでしょ」
 だからいやなんだよ、この女は! なんで、こうなんだ!?
 いらいらしているはずなのに、なぜか体が勝手に彼女の目前まで歩みを進めていった。しかも……あれ? 俺いま、ひょっとして笑ってねえ? なんなんだ、これは一体。
「イインチョ、何聞いてるの? モーツァルトかなんか?」
 彼女はかたっぽの頬だけで笑った。
「まさか! モーツァルトも嫌いじゃないけど、でも、こんな夕焼けにはそぐわないでしょ」
 その後に続いたミュージシャンの名の、その渋さに、俺はまたしても驚いた。WOY(ウォイ)! この女、俺と同じ趣味してやがる。

 委員長の微笑みはいつもと変わらず小生意気で、なのに俺が理性を吹き飛ばしたのは、きっとこの夕焼けのせいなんだと思う。
 いや、夕焼けに照らされた委員長は妙に色っぽく見えたのだよ。 だから全部これは夕焼けの魔法。そういうことにしておこう。
 委員長がその細い指先で、ゆっくりとヘッドフォンをはずし、薄い耳があらわになる。その耳たぶにうっすらとピアスホールを見出したとき、俺はもう夕焼けに抗うのをやめたのだ。

 無我夢中のうちに全てが終わり、俺はようやく我に帰った。委員長は俺の下で、やっぱり生意気に笑っている。
 なんだよ、畜生。こいつ、処女じゃなかったのかよ。ああ、もう、完敗じゃねえか。やっぱりこの女はいけすかない。そうさ、初めて見たときからずっと、ずっといけすかない。
 俺の苛立ちなんて完全に超越して、委員長はすぅっと人差し指で俺の喉を撫でてさえみせるのだ。
「汗かいてる」
 なんでこいつはこうも、苛立たせるんだ? なのに俺の口は勝手にこんなことを言い出して、俺を慌てさせる。
「また、こういうふうに、会いたい」
 委員長は片頬だけで微笑んでみせた。
「いいよ、あなたが私との間に、何も生み出さないって約束してくれるなら」
 ああ、悔しい。なんでこいつは。
「まさかとは思うけど、ひょっとして、あなた、私に自分のこと惚れさせたいって思ってる?」
 なんでこいつは。
「そういうことも、そのうち、あるかもしれないね。だってあなたセンスあるし」
 気づいたら委員長はさっさと制服の乱れを直して、教室を出て行ってしまっているのだ。
「私、男に溺れるの、けっこう嫌いじゃないほうよ」
 最後までいけすかない。なんてかわいげのない女なんだ。
 でも、精一杯いきがりつつ、ズボンのチャックを押し上げる男ほど、情けないもの、ないよなあ。そのくせこの高揚感はなんだよ。ああ、どうしよう、俺とうとう本物の馬鹿になっちまった。

「モーツァルトじゃない。キャロル・キング」
 とっくにいなくなったはずの彼女の声が耳にわんわんこだまする。
 ああ、これから夕焼けを見るたびに俺はキャロル・キングを思い出さずにはいられなくなるんだろう。こんなタチの悪い魔法をかけやがって。
 さて、これからあの女、どんな目にあわせてやろうか。


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