自動濾過装置

 私、きっと恋するふうにできてない。
 ヤスコは自身をそのように認定している。
 多分、誰かを恋するって才能みたいな特別なもので、私はそれを心身の機能として持ち合わせていない。だから。
 親友のマリはいつだって誰かと恋にしていて、ヤスコはそんな彼女に羨望を覚えるどころか、自分とは違う生き物であるとさえ思うのだ。
 ねえねえ、とヤスコの肘を引っ張るときのマリは、必ず頬をぴかぴかさせている。その豊かな才能を駆使して見つけ出した恋の扉。それをノックしようとする、その刹那。マリはヤスコのセーラー服の肘をつつくことで、心の準備を整えようとするのだ。
 5組のヨコヤマくん、どう思う? バスケ部のクボタ先輩、いいと思わない?
 休み時間、瞳を潤ませて囁くマリの吐息がヤスコの耳たぶをくすぐる。その瞬間、同級生たちのさざ波みたいなお喋りが、すう、と引いていき、ヤスコは、自分は今確かにマリの隣にいると感じるのだ。それは絶対、という言葉とよく似ているような気もするけれど、ヤスコ自身、どうして自分がそんなふうに感じるのか、よくわからないでいる。
 ただヤスコがマリとのお喋りを心地よく思っているのは紛れもない事実だ。休み時間、マリが廊下のすみっこに呼び出すこと、そして彼女の恋のかけらたちについてお喋りしてくれること、ヤスコはとても気に入っている。もっと言うなら、マリのちょっと小さめに結んだセーラーのスカーフも、いつもきっちりと同じ位置につなぎとめられたソックスも、こっそり光る指先の透明マニキュアも、全部、全部。
 ただ、自分がまったくそれを真似しようと思わないのを、ちょっと異常に感じるだけで。
 マリはやっぱり、そういうヤスコに時々退屈になるようで、そんなマリのふくれっつらを見るたび、ヤスコはちょっぴり申し訳ないような、楽しいような、妙な気分になる。
 隣のクラスのスズキくんだよ? 本当にわからないの?
 マリはよく、こんなふうにヤスコをなじった。スズキくんとやらは、なにやらこの学校でも、5本の指に入るかっこよさだそうで、いつ芸能界にスカウトされてもおかしくない、と、マリはこう主張するのだ。
 でも、そんなこと言われましても、と、苦笑してみるくらいしかできないのがヤスコの悲しいところだ。
 なぜなら、そのスズキくんにしろ、クボタ先輩にしろ、いったいどんな人やら、ヤスコにはさっぱりわからないのだ。
 そんな人、うちの学校にいましたっけ?
 こんなこと言おうものなら、マリはますます怒るだろう。さすがにそれも嫌なので、最近のヤスコはマリの甘い話に対して、うんうん頷くだけにとどめている。
 そもそもヤスコには、同級生にしろ、先輩にしろ、どれも同じ真っ黒の学ランのかたまりとしか見えないのだ。よくよく見れば、それぞれ髪型が違っていたり、かっこよかったり不細工だったり、脚が長かったり太っていたりする。
 確かに素敵な人もいれば、そうでない人もいる。それはヤスコも認める。
 マリの恋のお相手なんて、素敵な人の中にでも特に素敵な人だったりする。本当に驚愕すべきは、彼女が思う人とほぼ必ず恋人同士になれることなのだろうけど、ヤスコとしては、彼女が自分のたったひとりを見つけ出すという、そのことがもう未知の世界。
 そして、それに気付くたびに、ますます自分の恋の才能のなさを自覚するはめになるのだ。比べてマリのなんて才能豊かなことか。嫉妬より劣等感より先に、ヤスコはマリに惹かれる自分を止められない。

 私は本当に男の子だとか恋だとかに興味がないんだろう。
 お風呂上りに鏡を覗き込みながら、自分をそう決め付けてみる。それは最近、毎晩の儀式となりつつあった。
「私、お母さんのヘチマコロン使ってるよ」
 いつだったか、ふと、マリに言ってしまったことがある。確か彼女が左頬にできたニキビにいらいらしてた日のことだ(せっかく今日はタケベ先輩と一緒に帰る約束してるってのに!)。
 そして、そのときのマリの顔ときたら!
 ヤスコはそれを思い出すたびに、やっぱり寂しいような嬉しいような変な気分になる。
 あの時のマリ、絶対、毛穴という毛穴全部広げちゃってただろうな。
 果たしてマリは毛穴を広げて、縮めて、を、3回繰り返したくらいの時間の後、大きな声でヤスコを叱ったのだった。
 ばか! あんたもう高校生なんだから! ちゃんとした化粧品使わないと!
 そうしてマリは先輩との約束を破って、ヤスコを駅前のファッションビルに連れて行ってくれた。先輩のことはいいんだよ、だってニキビできちゃったし。それだけ言って、おすすめの基礎化粧品セットをヤスコに無理やり買わせた彼女は、学校のどんな男子よりもかっこよく見えた。
 その化粧水を、風呂上りの火照った顔にぴしゃぴしゃやってみる。正直言って、ヘチマコロンとどこが違うのか、ヤスコにはよくわからない。ただちょっとだけ、ヘチマコロンより女っぽい匂いがするような。でもこの匂い、あまり好きじゃないな、と、こっそり思う。
 化粧水の後に、美容液、というやつを塗る。顔中がてらてらして気持ち悪い。最後にクリーム。この順番じゃないと駄目だからね、全部塗らないと意味ないんだからね、と、マリはしつこく念押ししていたけれど、これもホットケーキミックスみたいで、やっぱりあまり好きじゃない。
 すべて塗り終えるころには、ヤスコの顔はすっかり甘ったるくなって、まるで天花粉をはたかれた赤ちゃんのお尻みたいになっている。
 これはきっと魔術みたいなものなんだろう。
 鏡の向こうのヤスコは真剣な顔でこちらを見返している。この魔法を続ければ、きっとマリみたく、恋の才能を手に入れることができる。そうしたらもう、マリにあんなふくれっつらさせることもない。1つの真っ黒なかたまりだった男の子たち。それをひとりひとり、別々に見ることのできる才能。ひとりひとりを選り分けて、そして自分の1番を見つけ出す、果てのない作業。考えるだけでうんざりするけれど、でも、マリにはいつも、ひらひらと笑っていて欲しい。
 ヤスコは前髪を上げていたヘアバンドをそっとはずした。
 きっとマリの瞳には、自分のための男の子を濾過する、そういう装置が内臓されてるんだ。だからあんなにも才能に恵まれている。
 私も、この魔法さえ続ければ、きっと。
 ヤスコは最後にマリとおそろいの目薬を両目に落とした。私、しょっちゅう目が乾燥して困るの。マリが眉間にしわを寄せていたのを思い出して、鏡の向こうの自分がマリそっくりのしかめっつらをした。
 その高性能の目が? 嘘ばっかり。

 その日、またまたマリにセーラー服をつつかれて、出てきた男の子の名前は、少なからずヤスコを驚かせた。
 マリはちょうどサッカー部のなんとかくんと別れたところだったから、そろそろ廊下に呼び出されるのは半ば予想していたけれど。
「ツジシタ!?」
 すっとんきょうに聞き返すヤスコの唇にマリの細い人差し指が押し付けられて、ちょっぴりどきっとする。
「しーっ! しーっ!」
 ヤスコが頬を赤らめているのにはまったく気づかず、マリは周りをきょろきょろした。幸い、廊下に出ている生徒はほとんどいない。マリはほうっと肩を落とすと、その高性能な瞳をじんわりと潤ませて、ヤスコを恨みがましく睨み付ける。
「もう、誰かに聞かれたら、うっとうしいことになるじゃない」
 ごめん、ごめん、と、謝りつつ、ヤスコはもう一度マリの出した名前について考えてみる。ヤスコの知っている名前がマリの口から出るなんて、初めてだ。でも、よりによって。
 そおっと長身のマリを仰ぎ見ると、いつものうっとりした頬。
「ツジシタって、私と同じ中学の?」
「うん。確かそうだったと思う」
 ヤスコは呆然とした。しじゅう鼻くそほじっては女の子になすりつけるので嫌われていたツジシタくんのことでしたら、中学どころか小学校も一緒でしたけど。
 どうして、よりによって、その。
 ヤスコがぽかんと口を開けているのを見て、マリはけたけたと笑い出した。
「そんなにびっくりすること?」
「だって、ツジシタくんって、全然、その、素敵でもなんでも」
 やあねえー、本当に見る目ないんだから。マリはふふふ、と、ぽってりした唇を緩める。本当にヤスコときたら、なんて、含みのある言い方。
「きっと、昔から知っているから、かえって気づかないんだよ」
 そういうものなんだろうか? だってツジシタくんって鼻くそマンなんだよ?
 呆れたように肩をすくめるマリ。
「いつの話してんの」
 それはそうだけど。ヤスコは納得いかない。ツジシタくん、帰宅部だし、ぼさっとしてるし、成績もそんなにだし。
 マリはふっとため息をついて、その後、首をぶんぶんふった。彼女のさらさらのストレートがヤスコのおでこを優しく叩く。もうこの話はやめ、という合図だ。
「ねえねえ、ヤスコってツジシタくんと仲良しだったっけ?」
 マリは一瞬でしっとりした瞳に戻って、首をかしげた。
「小学校まではそこそこ喋ってたけど、でも中学入ってからは全然」
「なーんだー」
 彼女はちょっとだけ眉根を寄せて、でも別に友達の助けなんてなくても落とせるけどね、と微笑んだ。その不敵さを滅茶苦茶かっこいいと思いつつ、それでもなんだか面白くない。
 どうしてマリみたいな女の子が、ツジシタなんて好きになるの? 私の毎晩の魔法、あのくさい化粧品を顔中に塗りたくって。あれは、ツジシタくんみたいな鼻くそマンを見つけ出すためのものだったの?
 ……そんなの、嫌だよ。
 顔を真っ赤にして俯くヤスコを励ますかのように、マリは優雅な声をかけた。
「あのね、ツジシタくんって、すっごく色っぽいんだよ。ヤスコにはわからないかもしれないけど」
 そこでちょうど始業のチャイムがなって、ヤスコはその言葉を訊き返せないままだった。

 まもなくして、さも当たり前のことのように、マリとツジシタくんは手をつないで下校するようになった。
 潔い性質のマリは女の子より男の子を選ぶことに躊躇しないので、ヤスコは彼女にないがしろにされることについては何も感じない。ただ、男の子の手につながったマリは私といるときよりも子どもっぽいな、と思うだけで。
 子どもっぽいマリももちろん嫌いじゃないし、何より、どうせまたマリは、その才能の豊かさゆえ、すぐヤスコのもとに帰ってくる。それがわかっているからこそ、マリが男の子に向かって一目散に走っていくのが気にならない。
 はずだった。今までは。
 どうしてツジシタくんなんだろう。
 このところ、ヤスコの頭の中では、この言葉ばかりぐるぐる回っている。
 どうしてマリみたいな素敵な女の子が、鼻くそマンと手をつないでるんだろう。だってあの手で、ツジシタくん、鼻くそほじりまくってたんだよ。
 そう思うと、本当に情けない気持ちになってきてしまう。
 それで最近は、毎晩の儀式さえ取りやめてしまった。マリおすすめのコスメは棚の奥にしまいこみ、母親のヘチマコロンを失敬する毎日に逆戻りしている。
 掃除当番の日、ほうきにぶら下がりながら窓の外を見下ろすと、そこには同じく掃除当番のくせに、そ知らぬ顔でるんるんツジシタくんに絡まるヤスコと、だらしなく目尻を下げきった彼とがそろってバス停に向かうのが見える。
 自分がどんどん不機嫌になっていくのを感じる。知らないうちに頬がむくれてくる。
 なんだよ、あれ。みっともない。
 でも親友の幸せを素直に喜べない自分はもっとみっともない。ヤスコはそれを思い出して、慌てて掃除を再開するのだ。
 やっぱりどうしても、納得いかない。なんだか妙に悔しい。その思いを消しきれないまま、力いっぱいほうきを動かすと、ぼろぼろのそれはキュウと情けない悲鳴をあげた。

「何がそんなに気に入らないっていうわけ?」
 マリの瞳は、そのいつだって潤んでいたはずの瞳は、今、確かに怒りに満ちていた。
「私が誰とつきあおうと、私の勝手でしょ? それにツジシタくんってとっても素敵なんだよ。ヤスコ、ちょっと失礼だよ」
 最近、私のこと避けてない? そう口火を切ったのはマリのほうだった。彼氏ができたら、それにかまけて私のことほっとくのは、いつもそっちのほうじゃん。もごもごと言い返したヤスコだったが、彼女はそんな言葉には騙されなかった。
「嘘ついても無駄だよ。だってヤスコいつもと全然違うし、そもそもはじめからツジシタくんのこと賛成してなかったでしょ」
 私、わかってるんだから。そこまでまくしたてて、マリは急に脱力した。
「まあ、私が怒っても、仕方ないことだけど」
 でも友達に冷たくされるのって、けっこう堪えるよ。この私でもね。
 初めて見るマリの落胆した様子に、ようやくヤスコは詫びた。それは今にも消え入りそうな声だったけれど。
「ごめんなさい」
 謝られるようなことじゃないよ。だってヤスコは悪くない。そして私も、ツジシタくんもね。誰も悪くない。
 マリは力なく笑ってみせる。これは仕方のないことだ。そう言って。
「ねえ?」
 ヤスコはそんなマリに思い切って問うた。
「あのね、私、やっぱりどうしてもわからない。ツジシタくんの、どこがそんなに素敵なのか」
 マリはしばらく難しい顔して宙を睨んでいたけれど、やがて、人差し指で髪を耳にひっかけながら、ゆっくりヤスコの目を覗き込んだ。
「それが恋っていうものだよ、ヤスコ」
 まっすぐに目をあわせられて、ヤスコは何度もまばたきしてしまう。
「ヒントをあげる」
 マリは言った。
「放課後、4階の、そうね、西のすみっこのトイレ。あそこの1番奥の個室で待ってて」
 ちゃんと、鍵かけてね。
 その台詞の最後はほとんど囁きで。
 マリはまた、私に魔法を教えようとしている。ヤスコはぼんやりそう思った。

 放課後、マリの言いつけどおり、ヤスコは恐る恐るトイレに入っていった。まだマリは来ていないらしく、ひと気のないトイレは妙にがらんとして見えた。
 これから得体の知れない何かが起こる。それはヤスコを不快にはさせなかった。なんせ、あの才能溢れるマリの言うことだ。ヤスコはマリが自分にかけようとしている魔法を思うと、グレープフルーツをかじったような気分になるばかりだ。
 それは朝食に出される種類のもので、1口で無理やり目が覚める。そんなすっぱさとほろ苦さ、そして甘さを持って、胸いっぱいに溢れていく。
 ヤスコはなぜだか極力音を立てないように注意しながら、そおっと奥の個室に自分を滑り込ませた。鍵もなるだけ静かに閉じる。それを全て終わらせたとき、自分がずっと息を止めていたことにようやく気づいた。
 足りなくなった酸素を取り戻そうと深呼吸して、あまりにも消毒くさいのにちょっと眉をしかめる。早くマリ来てくれないかなあとそれだけ念じて、壁のタイルに体をもたれさせた。全身でトイレの入り口の気配を探りながら、それは永遠くらい長い時間だった。
 冷え冷えしていたタイルが、ヤスコの体温にじんわりとあったまったころ、ようやく外から気配がして、ヤスコは体を浮かせた。
 誰かの声。誰か、男と女の声。
 女のほうの声は馴染みがあるそれだ。そう、マリの。
 息を潜めて、様子を伺う。
 男の声。これはツジシタくん。マリ、ひとりじゃなかったんだ。
 ちょっとがっかりしたけれど、でもマリにはマリの考えがあるはずで、だからヤスコはいたずらに声を上げるのをやめ、ふたりの動向を探ることにした。
「マリ、本気で言ってるの?」
 これは、ツジシタくんの声。なんだか困惑しているようだ、と、ヤスコは思う。
「もちろん」
 マリの甘ったるい声。
「だって、どきどきするじゃん」
 だから、ね?
 ツジシタくんはそれでも何かもごもご言っていたけど、最後には決意したらしい。隣の個室に入った気配がする。
 マリは何を彼に要求してるんだろう。
 当のふたりが急に静かになって、ヤスコはますます困惑した。
 多分、さっきの様子だと、ツジシタくんはトイレに入るの嫌がってた。その後、個室に入った気配がして……。
 ここまで考えて、ようやくヤスコは顔を赤らめた。わかったのだ。ふたりが何をしようとしているか。おぼろげだけど、でもきっと。ヤスコのまったく知らない世界のこと。それを。
 気付いたのとちょうど同じ瞬間、隣からため息が聞こえてきて、ヤスコは身をすくめた。これはマリの声じゃない。ツジシタくんの。マリ、いったい何考えてるの?
 マリのとんでもない行動に困り果てながらも、でも好奇心に逆らえず、ヤスコは静かに体を移動させた。じわじわと隣の個室との境目の壁に体を寄せていく。心臓がどんどん高鳴って、今にも口から飛び出しそう。
 どこかに隙間がないものか、指先と目線とで、じわじわと壁を探ると、果たして細い穴を発見した。ヤスコは片目を閉じて、そこに顔を押し当てた。
 狭い視界いっぱいに広がったのは、まずはマリの形のいい後頭部。視線を上げていくと、ツジシタくんがぎゅっと目を閉じているのがわかる。
 マリはこちらを振り向く様子もなく、なにか、すごく熱中しているようだ。対するツジシタくんはなんだか苦しそうに見える。
 すると、ぴちゃぴちゃぴちゃ。音。
 うわー。ヤスコは自分の握りこぶしを噛み締めた。
 マリ、ツジシタくんの……舐めてるんだ。
 マリのつやつやの茶髪が、やがて柔らかく上下しだす。ツジシタくんは、顔を高潮させて、その頭を両手でつかむ。大きなツジシタくんの指に絡めとられたマリの髪の毛は、今までで一番美しく見えた。  ほう……。ため息が彼の唇のうつろな隙間からもれるのを、ヤスコは確かに目線で捉えたと思った。
 何度も何度も頭を上下させた後、マリはゆっくり顔を上げた。
 ヤスコからその表情は見えないけれど、でも彼女がどんな顔をしているかは、ツジシタくんの表情でかる。知らず、握りこぶしを噛む力が強まった。
 マリはしばらくツジシタくんを見上げていた。ツジシタくんはうっとりと汗ばんだ顔でそんな彼女を見下ろす。やがてマリは小さく呟いた。
「ツジシタくん、今、すっごくいい顔してる」
 この声!
 ヤスコは目の前が真っ暗になった。
 これ、私知らない。知らないよ、マリ。
 こんな声の出し方知らない。男の子をあんな顔にさせるやり方も。
 何よりマリがそんな声出してるの、初めて聞くよ、私。
 頬に熱いものが流れてきた。涙だ、と一瞬後に気づいた。
 私、何がそんなにショックなんだろう。涙を手の甲でぬぐいながら自分に問いかける。
 マリがいやらしいことしているから? それともその相手がツジシタくんだから? もしくは、それを見せ付けられてるから?
 違う。
 私。私。
 これ以上、こんなところにいられない、と強く思った。早くここから出ないと。私。
 ヤスコは乱暴に扉を開け、ものすごい勢いでトイレを駆け出した。バタバタン! と大きな音がする。ツジシタくんに気づかれる? 知るもんか。
 だって私は、今、生まれて初めての失恋をしたんだから。

 翌日、マリはいつものぴかぴかした頬で、無邪気に登校してきた。人の気も知らずにのん気だよなあ、と思いつつ、それでもどうしても彼女を憎みきれないヤスコがいる。
「ねえねえ、どうだった? 昨日のツジシタくん。最高色っぽかったでしょ?」
 休み時間、ヤスコの耳元に唇を近づけて、そっと囁くマリ。
「うん、すっごく」
 私、うまく笑えてるかな。ヤスコはびくびくしながら、それでもお気軽なマリになんとか微笑みかける。実際はその吐息にぞくぞくして、とても笑うどころじゃないと言うのに。
 本当に色っぽかったのはね。言いかけて、でもやめたのは、ヤスコが恋をしているから。
 昨日ヤスコはしまいこんであった化粧品を、久しぶりにひっぱりだしてきた。そして、お風呂上りに、これまでになく丹念に肌にすり込んだ。
 そうすれば、少しでも、マリに近づける。そう思ったから。
 どうして今まで気づかずにいたんだろう。
 ヤスコはマリののろけ話を聞きながら、泣きそうに辛い幸福感に浸される自分をもてあます。
 私、とっくに恋する才能持ってた。ただ、気づいてなかっただけで。
 男の子が黒いかたまりだったら、女の子だってそうじゃない。だってみんな、同じセーラー服着てて。そこからどうして私はマリを選んだの? どうして私は、こんなお馬鹿で尻軽な女の子のそばにいるの?
 どうしてこんな当たり前なこと、今まで。
 ヤスコは自分の瞳も、とうの昔から自動濾過装置を備えていたことに、ようやく気づいたのだ。
 私の知らないマリ。そんなの嫌だ。私にも見せて、聞かせて。マリの色っぽい意地悪な姿。これ、きっと嫉妬って言うんだよね?
 あっけらかんと自分の恋の話をしつづけるマリを、ヤスコはうっとりと見上げる。瞳から今にも涙が零れ落ちそうなのを必死で押しとどめ続ける。
 そうね、これだけ泣き続けたら、そりゃ目も乾燥するわ。目薬で補充しないと、恋にはとても間に合わない。
「ね、ヤスコもそう思うでしょ?」
 唐突にマリに話を振られて驚いたヤスコは、激しくまばたきしてしまった。そのとたん、今まで我慢してきた涙の粒が、ぽろぽろと頬に零れ落ちる。
「やだ、ヤスコ、何泣いてるの!?」
 なんでもない、なんでもないよ。
 慌てて顔を覆うと、マリの暖かい手の平が頭に乗せられたのを感じる。
 ただ、幸せで辛いだけ。言いかけてやめるのは、ヤスコはマリを失いたくないから。
 あー、さては恋してるな? マリの鋭いのか鈍いのか、よくわからない言葉に、ヤスコはふふふ、と少しだけ笑った。


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