左の親指

「それじゃないわ」
 瑞乃は傲慢に言い放つ。
「それじゃないのよ。私が求めているのは」
 そこで僕はしぶしぶ自分の手の平を彼女に差し出す。本当は僕だってわかっているのだ。瑞乃が心から欲っしているもの。
「そっちでもない」
 瑞乃は僕の示した右手を乱暴に振り払うと、代わりに左手を掴んだ。そしておもむろに、その親指を、僕の親指を、幸せそうに吸い出すのだ。
「やっぱり最高ね。あなたの左の親指」
 そんなことを言いながら、赤ん坊のように、僕の指をちゅぱちゅぱと吸う彼女。時にはねっとりと舐め上げたり、先っちょを高速回転させたり。僕はそれをぜひとも股間に施して欲しいと願うのだが、そう言うと瑞乃は途端に拗ねて、僕のほっぺたを引っ掻く。顔にばっちり3本の傷をこしらえて以来、僕はいらないことは言わないようにしている。
 家に帰ると、瑞乃はたいてい眠りこけている。昼間からずっと寝ているのだろう。電気のついていない部屋は薄暗い。そんな不健康な空間、ドアを閉める音でようやく瑞乃は目を覚ます。呆けた顔のまま状態を起こすと、次には僕の姿を認め、にっこりする。そしてベッドから飛び出て、僕に勢いよく絡み付いてくる。まるでちっちゃな犬っころのようだ。僕もすっかり嬉しくなって、抱擁やら接吻やら、彼女にプレゼントしてやろうと試みる。
 すると突然左手に暖かく湿った感触を感じる。瑞乃が光の速さをもって、僕の左手をしゃぶりだしているのだ。そのうっとりした顔を見ていると、抱擁も接吻も彼女に悪い気がしてしまい、僕はただただ彼女の邪魔をしないよう、じっとしているしかできない。
 おかげで僕は未だに彼女と抱擁も接吻も性交もしたことがないのだ。
「あなたの左の親指って、そうね、とっても文学してるのよ」
 生意気な瑞乃は、そう言って僕を混乱させる。
 僕が目を白黒させていると、「あなた、マツウラリエコ知らないの? まあ、あれは右足のお話だけれど」なんて馬鹿にした様子。僕は小説家の名前なんて1つも知らないけど、でも、女子アナの名前だったら全部言えるぞ。そう答えると、瑞乃はますます白けた顔で、私、シャワー浴びるわ、と、僕に背中を向けるのだ。瑞乃といる僕は、いつだってこんなふうに切ない。
 瑞乃は昼に寝る代わりに夜は寝ない。僕が仕事疲れで早々に床につくと、瑞乃は黙ってベッドの傍らに座り込む。そして優しく僕の左手を掴むと、ただひたすら丁寧に精巧に、親指をしゃぶりだすのだ。それは厳粛な時間だった。まるで教会で神父の説教を聞いているような。僕は教会なんかに行ったことはないけれど、そんな想像をさせてしまう力を持った女の子が瑞乃なのだ。
 瑞乃の口内はとても優しくて、僕はあっという間に心穏やかな気持ちになる。そしてあっさり充実した眠りに落ちてしまう。翌朝には舐め疲れて眠ってしまった瑞乃と、僕のすっかりふやけた親指とがカーテン越しの光に淡く照らされる。

 その日、僕は仕事中、鉄板と自分の手とを間違えて、プレス機でぷしゅうと押しつぶす、という失態を犯してしまった。まずは衝撃、そのあとに熱さ。しかし僕が何よりもショックだったのは、押しつぶしたのがちょうど左の親指だったことだ。一瞬で僕の血まみれになった工場内で、同僚に抱きかかえられながら、僕は指のことなんかより、瑞乃を失う恐ろしさに泣き喚いた。半狂乱の僕を、救急車があっという間に病院に連れ去り、付き添いには工場長がついてくれた。
 医者は手早く正確な処置と憐れみの目とで僕をいたわったし、工場長にいたっては、ぜんまいじかけのおもちゃみたいに僕に頭を下げ続けた。僕はその様子を小難しい映画のスクリーンに対するように、ぼんやりと眺めた。ああ、この世の中は善良な人たちで満ち溢れている。たった1人、僕のアパートで昼寝ばかりしている女の子を除いては。
 きっと瑞乃は左の親指を失った僕を、あっさりと捨てるだろう。冷たい目で僕の左手を覆った包帯を見据え、お得意の文学論でさんざんに僕を翻弄したあと、さっさとアパートを出て行くだろう。髪の毛一本だって痕跡を残さずに。僕には不自由になった片手を抱え、何よりそれ以上の孤独を抱え、ただ抜け殻のように生きていくことしか残されない。瑞乃のいない毎日なんて、僕に言わせればビジネス街のゴミ溜めのごとし、だ。
 それでも僕は瑞乃のそういうところをかけがえなく思っているのだ。もう、どうしようもない。
 すっかりしょぼくれてアパートに戻ると、やっぱり瑞乃はのん気な顔をして眠っていた。いつもどおりドアが閉まる音で目を覚まし、体を起こし、たった一瞬ぼんやりした後、満面の笑みを浮かべる。僕はその笑顔が痛くて痛くて、叫び出しそうになるのを、なんとか我慢する。
 瑞乃は僕の様子なんてまったく気づかずに、いつものように飛びついてきた。そして左手を掴み……次の瑞乃の反応が怖くて、僕は両目を強くつぶった。
 真っ暗になった僕に訪れたのは、果たして暖かな感触だった。僕はこれを知っている。これは……瑞乃が僕の左親指を舐めるときのそれだ。優しくて湿っていて官能的な。
 驚いて目を開けると、いつもの瑞乃のうっとりした表情が僕を迎えた。なんと彼女は僕の包帯だらけの左手を掴み、いつもどおりに親指をしゃぶっているのだ。正確に言えば、僕の親指が生えていた部分。そこを、丹念に丹念に舐め上げている。
 固まりきった僕に、瑞乃は色っぽく囁く。
「やっぱりあんたの親指っていかしてるわ。最高よ。文学だわ」
 小説なんて国語の教科書でしか読んだことがない僕は混乱する。どうして瑞乃は僕の左親指を舐めることができるんだ? 僕の失われた指を、どうして?
 瑞乃はおろかな僕のことなんておかまいなし。くすくすと喉を鳴らしながら、虚空をしゃぶり続ける。そして僕は確かに感じているのだ。瑞乃の舌の感触を、他のどこでもない左の親指に。

 僕は当然、何日か仕事を休むことになった。と、いうか、これ以上あの仕事を続けられるかどうかも定かではない。しかしいつも家にいる僕に瑞乃は有頂天だ。ここぞとばかり、昼も夜もなく、僕の親指を舐め続けている。
 そして……そして、僕の左手は確かに瑞乃の舌を味わっている。それどころか、あのちょっと喜ばしくない、ふにゃふにゃにふやけた指の感触まで、時には僕を襲う。僕は次第になにもかもどうでもよくなってきた。瑞乃が相変わらずそばにいて、僕の指を舐めている。プレス機に押しつぶされたはずの僕の指は確かに瑞乃の舌に蹂躙され続けている。もう、それでいい。だってこれ以上に幸福なことが、僕にはあるだろうか?
 ……いや、ひとつだけある。
 僕の包帯だらけの手を掴み、親指を舐め続ける瑞乃を見下ろしながら思う。
 願わくば、その舌づかい、股間にもお願いできないだろうか?
 これを言ったら、またひっかかれて、前みたく5日間も傷跡に悩まされるはめになるかも。でも、なんとなくだが、今の瑞乃だったら、喜んでそれに応じてくれるような、そんな自信があるのだ。
 僕はおずおずと瑞乃の名を呼んだ。瑞乃はくりくりと生意気なその瞳で僕を振り仰ぐと、仔犬みたいに首をかしげる。


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