はなこな症キッス

 親子丼を作ろうとしたら、肝心の卵がなかった。ペーパードライバーのあたしは徒歩10分のコンビニを思っただけで嫌になり、とりあえず昼寝している恋人のお腹を蹴り飛ばした。
「なんだよ、いきなり」
「卵切れたの。コンビニまで乗せてって」
 大きなマスクをつけたまま眠っていたあたしの運転手くんは、ぶつぶつ言いながらも起き上がった。高校時代のジャージを未だに部屋着にしているのには少し呆れるけど、あたしもあんまり人のことは言えない。大手量販店で手に入れた安物ジャージは真っ赤でこれを着たまま外出するのは度胸が必要だ。
「行くなら、とっとと行くよ」
 もう鍵を掴んで玄関に向かった恋人にうろたえる。
「この格好のままで?」
「卵買うだけなんでしょ?」
 さっさと外に出てしまう彼に、慌ててマスクとサングラスをつけて後を追うと、外の世界はすっかり夕暮れにさしかかっていて、空気が昼間より少しだけ柔らかい。

 運転席で恋人が何度も何度もくしゃみする。彼もまたあたしと同じ病気にかかっている。
「マスクがちゃんとかぶさってないんだよ」
「マスクごときにちゃんとも糞もあるか」
「だってあたしはさっきから一度もくしゃみしてないよ」
「それはキミの鼻が低いから。だから花粉が入り込むスペースもない」
 なんだろう、このかわいげのなさ。憤然と黙り込んでいる間に車はコンビニエンスストアに着き、恋人は駐車場に車を突っ込むとエンジンを止めないまま、私をあごでしゃくった。
「着いたよ」
 ひとりで行け、ということか。なんだか余計にむっとくる。
「あんたが買いに行ってきてよ。あたし、こんな格好だし」
「俺だってジャージだよ」
「女がひとりでジャージでマスクでサングラスで、確実あたし不審人物じゃん」
「だからそれは俺もいっしょでしょ?」
「いいじゃん、あんたいっつもその格好だし。その代わり、今夜たっぷりフェラチオしたげるから、それでいいでしょ?」
 すると恋人は急に私の財布を奪い取って、シートベルトをはずした。
「絶対だからな?」
 え?
「その言葉、忘れんなよ!?」
 彼は私の顔に指をぐいと突きつけたと思うと、次の瞬間、車を飛び出していった。へーっくしょい、へくしょい、が、みるみる遠ざかっていく。
 なんだか呆然、だ。本当は彼を怒らせるつもりの言葉だったのに。あたし、普段、そんなにフェラチオ手抜きしてたんだろうか。

「うわあーもう恥ずかしかったよ。店入ったとたん、店員に睨まれてさぁ」
 6個入りパックの入った袋を持って、恋人はあっという間に帰ってきた。本当はもっとたくさん入ってるのがよかったんだけど、それはさすがに黙っておく。
「俺、きっと強盗だと思われたよ! だって顔ほとんど見えないだろうし、いかにも貧乏そうだし」
 ひとりで大騒ぎしている恋人がなんだかすごく子どもに思えた。それは決してマイナスの感情ではなく、彼のジャージとマスクが普通にかわいらしく見えたということで。あたしの怒りはあっという間にどこかに飛んでいってしまった。我ながら簡単な女!
「ねえ」
 慌ててキーをまわす恋人を覗き込む。
「なんだよ」
「キスしよっか?」
「あほか、こんなとこで」
 やっぱりかわいくない。こんなやつには嫌がらせだ。
 ふん、と鼻息をマスクの内側で吹き出す彼のほっぺたを力任せに掴んで、無理やり彼にキスをした。ガーゼの向こうで唇がふにゅりと押しつぶされた感触。
 それを確認した後、私はすぐに体の向きを直す。
「わ、ばかか、お前」
「いいじゃん、1度マスクごしのキス、してみたかったんだよ」
「お前、絶対頭おかしい。今夜はたっぷりご奉仕してもらうからな」
 その言い方、親父くさいよ。
 お腹の中だけでそう思って、あとは黙って今夜のことだけ考えてみた。ちょっとだけわくわくしたのは恋人には内緒にしておくことにする。


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