水族館

 失恋したので会社を休んだ。車をひとっ走りさせた先の公園は平日のせいでほとんど人がいない。孤独が余計に増して叫び出しそうになるかわりに、煙草と携帯用灰皿をバッグから引っ張り出した。
 どうせだから「あえて」広場の真ん中に体操座りすると、見渡す限りの芝生芝生芝生。世界の中心が自分でしかないということは、いつだってこんなにも孤独で、だけど普段はそれをギリギリ忘れて生きているというのに。
 煙草のメンソールが喉から瞼に浸透して、つーんと涙がわきそうになる。平日の公園、芝生広場にひとり、嫌になるくらいの晴天。そして、そこで泣くのはあまりにも退屈。たとえ恋で失敗しても、つまらない女にだけはなりたくない。酒におぼれるのも嫌だ。他の男に抱かれるのも嫌だ。線香花火に見入るのも嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。そんな陳腐なの、嫌だ。それより何より別れるのが一番嫌だ!
 鼻をかもうとしたらティッシュがなかった。きょろきょろすると、右手に汚い公衆トイレがぽつり。よろよろしながら、そこに向かい、ペーパーで鼻をかみつつ放尿した。薄暗くて狭くて不潔な場所だった。
 用を足した後、手洗い場の水道をひねって手を差し出すと、その冷たさが予想外に清清しく染み渡る。そこでようやく喉がどうしようもなく渇いていることに気づいたが、まさかこれを飲むわけにもいかない。コンビニエンスストアにでも寄ればよかった。舌打ちしつつも未練がましく流れる水の勢いを見つめ続けた。透明にも色があるな、そんなことを考えていると、自分がえら呼吸しているような気がしてきて、アンモニア臭いそこから、慌てて脱出した。
 そそくさと世界の中央に戻ると、また煙草に火を点けて、ぼんやりと空を眺めた。煙草のせいで余計に喉が渇くけれど、やめる気にはなれない。煙草をやめるくらいなら空が海になればいい。私はその塩水を飲み干して、余計に喉を乾かすのだ。乱暴なことを思いついた自分に驚くが、そう言えば空は、見れば見るほど海だった。
 ざーん、しゃわしゃわ。じーっと空を睨みつけているうちに、どこからともなく潮騒が聞こえてくる。ざーん、しゃわしゃわ。首をきょろきょろさせても、記憶上の地図にも、どこにも海らしきものはない。いや、唯一あるとすれば、それは空だ。
 ますます凝視すると、やがて空が泡立ちはじめた。今まで雲だと思っていたものは、よくよく見ると、波の指先だったのだ。頭上の海はおだやかで、静かに満ちたり引いたりを繰り返している。ざーん、しゃわしゃわ。ざーん、しゃわしゃわ。一瞬、魚のひれがひらめいて消えた。あそこは、海だ。
 なんだ、やっぱりそうだったのか。安堵したのと丁度同時だった。重力に耐え切れなくなった海が、滝となって地上に落ちてきた。もちろん私の上にもふりそそぐ海。指先についたそれを舐めてみると、やはり、しょっぱい。
 立ち上がり、両手を広げて、海水を全身で受け止めようとする。予想以上の水圧によろけながら、なんとか両足で体を支える。すると自分がえら呼吸を始めた気配。さっきのあれは錯覚なんかじゃなかった。そうだ、私は今、魚に帰っているんだ。
 大量の海は瞬く間に芝生の上に積み重なって、まもなく私の顔も沈むだろう。そうなったら思いっきり泣いてみようと思う。きっと涙はあっという間に海と同化してしまうだろうから。
 無重力が優しく私を包み込んでいく。


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