妻の失恋

 帰宅したらば、上等のごちそうたちが僕を迎えてくれて、今日は仕事で手違いが重なった僕だけれど、一気にご機嫌になってしまったのだった。
 妻はめったにつけないお気に入りのエプロン姿で、僕をにこにこと見つめている。そしてテーブルの上にはごちそうだけでなく、薔薇の花やらキャンドルやら、おまけにワインまで冷やされているのだ。
 どうしたんだい? 今日は誕生日でも結婚記念日でもなかったはずだけれど。
 にやけ顔で妻に問う僕。妻は途端に顔を赤らめ、もじもじとエプロンをいじる。やがて歌うように囁くには、
「ねえ、どうしましょ。私ってば恋しちゃったみたい」
 意外すぎる展開に僕は咳き込んだ。
「私、本当に彼のこと、好きで好きでしかたないの」
 妻は黒目がちな瞳をじんわりとうるませて、僕に訴えるのだ。
「私にとって1番大切な人であるあなたに、最初に彼のこと紹介したいの。ねえ、彼に会ってくれるわよね?」
「そいつはちょっとひどいんじゃないか?」
 僕はようやく気を取り直して抗議した。
「だって君と僕は結婚している。お互いの両親や友達の前で永遠の愛を誓った。それなのに」
「ええ、あなたには悪いと思っているわ。まさか自分がこんなにも狂おしい恋に落ちてしまうだなんて」
 結婚した瞬間は心からあなたのこと愛してたの、本当よ。続く台詞は余計に僕を追い詰めたのだが、妻はそんなこと露知らず、
「さあ、彼に会って頂戴。私の大切なあなた」
 すっかり恋する乙女なんである。
 お手上げだ。
「まあ、会ってくださるのね」
 妻は天上の微笑みを浮かべ、そして僕以外の誰かに呼びかけた。
「さあ、出てらっしゃい。私の愛しいあなた」
 おいおい待ってくれよ。まさか、そんな。急すぎるじゃないか。
 僕は面食らった。
 僕ときたら会社帰りで疲れてるんだよ? そう、君にクリスタルの香水瓶やら薔薇のオイルやら買ってやるために、今日もがんばって働いてきたんだ。そんなけなげな夫にこの仕打ち。
 恋する妻にはあわれな僕が目に入らないようだ。小さく歌いながら、エプロンのボケットの中に手の平を入れた。エプロンは新婚当時に、2人してデパートまで買いに行った、ひどくおとぎ話めいたフリル。そこからそぉっと何かを差し出す。
「き、き、き、君! それは一体……!」
「私のダーリンよ」

 妻の手の上にいるのは……グロテスクな蜘蛛だった。真っ黒な地に赤い斑点が浮き、細い足だけが妙に長い。お世辞にも気持ちいい外見とは言えない。
「た、確か、君、蜘蛛なんてだいきっらいだったはずなんじゃ……?」
「ええ、そのとおりなんだけれど……」
 妻は恋人を乗せてないほうの手を頬に当て、首をちょこんと傾げる。
「恋って理屈じゃないものね。私、彼と出会って、初めてそれを知ったわ」
「僕より、その男のほうがいいって、君はそう言うんだね」
 僕は恋敵を睨みつけた。蜘蛛は妻の美しい手の平の上で、どてっと寝そべっていやがる。
 のんきなものだ。嫉妬でめまいを覚える僕。
「ええ。でも私の幸せは、あなたにとっても幸せ。ねえ、そうよね?」
 長い睫毛が彼女の磁器みたいな肌に淡い影を落とす。その手の平の上で、かすかに足を震わす、蜘蛛。僕は怒鳴るかわりに大きく息を吸って、吐いた。
「とりあえず、今日はもう寝るよ」
 妻はひどく不思議そうな顔で首をかしげてみせ、僕は少し泣きそうになった。

 それから数日というもの、僕たちは実にぎこちない毎日を過ごした。
 妻はしばしば僕に話しかけようとするのだけれど、僕は彼女に視線すら合わせなかったのだ。そのたびに妻はひどく困った顔をして立ち尽くす。ああ、醜い男の嫉妬。笑ってくれ。
 たまに彼女が蜘蛛にひそひそと話しかける声がして、そのあまりにも親密な響きに、僕のはらわたは余計に煮えた。
「あらまあ、ずいぶん上手に巣を作るのね」
「あなたの触覚ってば、なんて素敵なのでしょう。まるで神様の彫刻のよう」
 僕は巣作りができなければ、触角も生えていない。ああ、いらいらする。
 これはまるで勝ち目がないってことではないか。

 砂漠みたいな日々を何日かすごしたある夜、帰宅した僕を迎えたのは、果たして泣き喚く妻の姿だった。僕は彼女の元に慌てて駆け寄る。
「一体どうしたって言うんだい? 君」
 妻はぐしゃぐしゃになって僕にしがみついてきて、それを強く抱き返してやる。ああ、僕の腕の中の妻。こんなにもか細い。
 彼女は泣きじゃくるばかりで、いっこうに要領を得ない。僕は心を込めて何度も何度も、彼女の背中をさすってやった。彼女が泣くその理由を知るために、僕はじっくり時間をかけて妻の言葉を拾い上げる必要があった。
「彼ってばもう結婚してたの」
 彼……あの醜い蜘蛛のことか。僕は途端に苦々しい気分になる。
「あのね、私、今日、ちょっとだけお昼寝したの」

 やがて目覚めた彼女は、いつものようにポケットの中の恋人に口付けしようとしたそうだ(当然僕はこれに嫉妬を覚えたが、今は黙っておいた)。
 ポケットにそぉっと手の平を差し入れると、いつもどおりの毛むくじゃらの感触。妻は幸せにくらくらしながら、彼を取り出した。
 するとその手の平の上には、恋人とともに、いつのまにか見知らぬ蜘蛛まで乗っかっていたそうな。
 妻は恋する者の直感で気づいた……これは、自分の恋人である蜘蛛の、正妻だと。
「それだけなら、まだいいのよ。だって私も結婚しているし」
 妻は泣き崩れる。
「その夫婦の周りにはね、それはもう……たくさんの子どもたちがうようよしていたのよ」
 想像してみてほしい。妻の白い手のひら。その上にひしめきあう無数の蜘蛛たち。僕の妻にとって、決して蜘蛛の子どもなど産めない妻にとっては、それは耐え難い事実なのであった。僕は妻をひしと抱きしめた。

 世の中には信じられないような悲劇がしばしば起こるものだ。こと、恋愛という場においては。
 例えば、愛する妻が突然とんでもない相手と恋に落ちたり、狂おしい思いの対象が実はとっくに子持ちだったり。そして、だからこそ恋愛はおもしろいのかもしれないけれど。
 僕には難しいことはわからない。でもとりあえずこの世の終わりのように泣き続ける妻を見て、とても切ない気持ちになったのは事実だ。
 だからこそ僕は、妻の服をひとつひとつ丁寧に脱がし、熱いシャワーを浴びさせてやったのだ。
 シャボンの香りで満ちたバスルーム。涙をほとりほとりと落としながら、妻は赤ちゃんのように素直に、僕の指ですみずみまで洗われた。
 その後はふかふかのベッドで心のこもったセックスをした。妻は飛び魚のようによく跳ね、小鳥のようにかわいく鳴いた。
 さんざん僕に愛された後、妻は満足げにことんと眠った。僕は妻のちっちゃな鼾に、この上ない幸せと安心を覚え、その丸まっちい耳をつんつんひっぱってやったり、つんとした鼻をちょっぴりつまんでやったり、半開きの唇に撫でるようなキスを繰り返してやったり。にやにや笑いが止まらないでいる。
 失恋したての彼女には、ほんの少し申し訳ないことかもしれないけれど。

 次の朝、妻は上機嫌で朝食をこしらえていた。彼女の優しいハミングとキッチンに漂う香ばしいアメリカンの匂いとに、僕は僕の朝を取り戻したことを知る。
 ああ、こんな素晴らしい朝、ずいぶん久しぶりじゃないか。心底ほっとしてテーブルにつく僕。
「あなた、おはよう」
 半熟目玉焼きの皿を片手ににっこりこちらを振り返る妻は……フリルのエプロンをつけていた。
 ほんの少し……いやな予感。
「ねえ、あなた」
 妻ときたら歌うように言うのだ。
「どうしましょう、私ってば、恋に落ちたみたいなの」
 そんな彼女の左手には……クリーニング屋でもらった水色の針金ハンガー。

 僕の嫉妬の日々は、まだまだ終わってくれないようだ。

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