妻のネクタイ

 僕たちは結婚2周年で、子どもの予定はまだない。結婚2周年のわりに、未だにいちゃいちゃしている。そんな夫婦だ。
 妻は毎朝泣いている。なんと僕が仕事に行くのが辛いと言って、それで泣くのだ。
「私はあなたと一時も離れてられないの」
 妻はネクタイを結んでくれながら、ほろりほろりと涙を流す。
「あなたと離れている時間は、私にとっては地獄に等しいわ」
 おおげさだなあ、僕は笑う。僕の帰る場所はここしかないんだよ。仕事さえ終われば家にすっとんでくるから。だから泣くのはおよし。
 頭を撫でてやると、ようやく彼女はちょっとだけ微笑んでくれる。でも涙はいっこうに止まる気配がない。
 そんな毎日をもう2年も続けているのだ。恋人時代なんて、今よりもっと離れ離れだったわけで、「本当は私、今にも気が狂いそうだったのよ。寂しくて寂しくて」。結婚後、彼女の照れくさそうな告白に、僕は心から驚いた。恋人時代の彼女は、僕の前ではそんなそぶり、カケラも見せなかったんだから。
 そりゃあ僕だって、彼女の束縛っぷりに、ときどき、ほんのときどき、息が詰まりそうになる。窮屈に思う。でも僕は彼女を愛していた。彼女はいつだって日なたのチョコレートみたいに優しいし、それに彼女の作る豚の角煮は絶品だ。家の中は常に清潔で、僕のカッターシャツはいつもピンとアイロンがかかっている。何よりベッドの上の彼女ほど最高な生物に僕は未だかつて出合ったことがないのだ。
 そして僕は毎日彼女の涙を振り切って、仕事に出かける。だってそうしないと、彼女にコスモスの花束やハーブティーやヨーロッパの絵本を買ってあげられなくなってしまう。妻も一応は理解しているらしく、仕事中に電話をかけてきたり、会社まで突撃してしまったり、そういうことは決してしない。きっと独身時代のように、耐えて耐えて、耐え抜いているのだろう。
 僕は妻のそういうけなげなところもまた、たまらなく愛しているのだ。
 その朝も彼女は泣いていた。たった数時間前にあんなにも素晴らしい夜をすごしたのに、それでも彼女はまだ僕が足らないとむせぶ。
「だって、たとえ3分だって、あなたと離れたくないのよ、私ときたら」
 やはり僕のネクタイを結んでくれている彼女の涙を、人差し指でそぉっとすくってやる。どれだけすくっても、すくっても、涙は止まることを知らない。
「あなたのいないこのお家で、お洗濯して、お掃除して。ねえ、その間もずっとあなたのことだけ考えてるのよ」
 彼女は世にも悲しいため息をつくと、
「ああ、あなたといつも一緒にいられたらいいのに。このネクタイがうらやましいわ。いつだってあなたの心臓の音を聞いていられる」
 ネクタイを指先ですぅっと辿った。

 僕が帰宅するとき、妻は本当に幸福そうに僕を迎え入れてくれる。まだインターホンを押さないうちから玄関に飛んできて、絶妙のタイミングでドアを開く。そこにはびっくりした顔の僕が突っ立っているという寸法だ。どうして帰ってきたってわかるの? 何度聞いても、彼女はふふふと笑い「愛の力よ」としか答えてくれない。でもきっと、それが真実なのだろう。彼女は僕を愛するがあまり、僕の気配にあまりにも敏感なのだ。野生のちっちゃな動物たちのように。
 彼女にジャケットを脱がされながら居間に辿り着くと、そこには湯気を立てた上等の晩餐たちが待ち構えている。僕はその魅力に負け、ネクタイだけ緩めて、彼女との幸せなディナーをとることにする。妻は実にかいがいしく、まるでダンスのステップみたいにキッチンと僕の間を行き来する。
 あらかたの支度が終わって、ようやく僕の正面に座ると、今度はうっとりと僕を見つめる彼女。ご飯をかきこむ僕は、そんな彼女に目だけで微笑んでみせる。するとふと、彼女の顔色が変わった。
 どうしたの? 不審がる僕に、妻は僕の緩めたネクタイを指差した。
「あなた、ここ、シミがついてる」
 ああ、本当だ。今日の昼、僕はカレーうどんを食べていた。その出汁がシミになっている。十分気をつけて食べたつもりなのに、本当にカレーうどんってやつは油断がならない。
「なんだかそのシミ、人間の形に見えるわ」
 妻の瞳がどこか嬉しそうに輝いているのに首をかしげる。清潔好きな彼女がシミに喜ぶなんて、明日はカレーうどんの雨が降るやも。
「と言うか、なんだか私に似てるみたい」
 僕は茶色いシミを見下ろしてみる。なるほど、なんとかすれば人間の形に見えないこともない。しかし、言っちゃ悪いが、とても妻に似ているようには見えないのだが。
「ほら見て。髪の毛が長くて、スカートはいてて。私だわ、そのシミ」
 あなたってば、シミまで私の姿だなんて、本当に私のこと愛してくれているのね。けれどそんなふうに妻があまりにも幸せそうなので、結局は否定せずにおいた。僕にとって彼女が笑っていることが一番幸福なのだ。

 次の朝も、彼女はいつもどおり僕の首にネクタイを巻きつけてくれた。
 ただ、いつもと違うところがちらほらと。
 第一に彼女が涙を流していない。それどころか、まったくの上機嫌なんである。僕は妻がどうかしちゃったんじゃないかと、不安になった。泣かないのが不安だなんて、おかしな話だって自分でも思うけれど。
 次に驚いたのはネクタイだ。昨日のカレーが染み付いたネクタイを、妻が僕の首に巻きつけている。あの清潔好きな、僕の愛する妻が、鼻歌まで交えながら、僕にシミ付きネクタイを結び付けているのだ。
 きみ、僕にシミつきネクタイで会社に行けって言うのかい?
 目を丸くしながら問うと、彼女はふふ、と笑った。
「あなた、これはシミじゃないわ。これは私なのよ」
 驚愕のあまり口が聞けないでいる僕に、妻はオペラ歌手みたく続ける。
「ああ、これで、やっと、やっと四六時中あなたのそばにいることができるのよ。こんな幸せったらないわ、あなた! あなたも喜んでくれるわよね? 私がいつだってあなたのそばにいられることを」
 ああ、カレーうどんの雨の変わりに現れたのは、朝なのに泣かないシミ付きネクタイを喜ぶ妻だった。僕はすっかり調子を狂わせながら、会社に向かった。
 そして帰宅した僕を待ち構えていたのは、果たして夜に泣く妻だったのだ。
 その日、僕が帰宅したというのに、それにインターホンを押したというのに、妻はドアを開けなかった。不思議がりながらキッチンに行くと、彼女はダイニングテーブルにつっぷして、世にも悲しい声を上げて泣いていたのだった。
 おやおや、いったいどうしたっていうんだい? 今日は僕が帰ってきても、喜んでくれないのかい?
「……あなた、ひどいわ……」
 妻から返ってきたのはこんな言葉だった。
「ひどいわ、あなた。もう私のこと、愛してないのね?」
 何、ばかなこと言ってるんだい。僕が君を愛してないだって? そんなことあるはずないじゃないか!  僕が笑ってみせても、彼女はほろりほろりと涙を落とす。
「じゃあ、なぜ?」
 彼女はその細い指先を僕の喉元に……正確には、僕のネクタイに向けた。
「どうして、ネクタイの私を消しちゃうの?」
 僕はギクリとネクタイを見下ろした。確かにそこにシミはない。
「しかも、他の女の子に消させちゃうだなんて、ひどいわ」
 そうして、もう耐え切れない、というように、彼女はうわんうわんと泣き出した。
 僕は信じられない気持ちだった。なぜ妻がそれを知っている? 確かにシミは会社の女の子が消してくれたのだ。あら、主任、ネクタイにシミがついてますよ、なんて、私、いいシミ取り持ってるんです、なんて、僕が抵抗する隙も与えずに、その「いいシミ取り」で、カレーの跡をきれいさっぱり消してくれてしまったのだ。
 それはいい。問題は、なぜそれを彼女が知っているのか、だ。
「当たり前じゃない」
 僕の思いを見透かしたかのように、彼女は言った。
「そのシミは私って、そう言ったでしょ。今日は私、ずっとあなたと一緒にいたのよ。
 私、知ってる。今日あなたが定期券をホームに落として、ちっちゃなおばあちゃんに拾ってもらったこと。
 私、知ってる。今日あなたが部長に書類のミスを4つも指摘されて、慌てて謝ったこと。
 私、知ってる。あなたがそのミスを直そうとしたら、あなたのパソコンがなぜだか壊れてしまっていたこと。それであなたが余計に慌てたこと。あなたの心臓はセックスのときくらいに、ドキドキしていたわ」
 確かにそれは全て、今日の僕に起こった出来事だった。
「だから私知ってるの。若い女の子がいきなりあなたの前に現れて、私をあなたから奪い去って、そして私を消してしまったこと。私、必死にやめてって叫んだのに、無駄だった。あなたにも女の子にも聞こえてないみたいだった。
 あの女の子、あなたのこと好きなのよ。どうして知っているかって? だって私に向かって言ったの。主任のネクタイに触れて嬉しいって。そう言ったの。だから私、知っているのよ」
 私、悲しい。とても悲しいの。そう言って彼女はまた泣いた。僕は黙って彼女を後ろから抱きしめた。彼女の細い肩が震えている。僕はとても切なくなった。
 世の中には知らないでいたほうが幸せなことがある。僕は妻を愛していた。この上なく愛していた。そして、愛する妻にこれ以上悲しい思いをさせたくはない。
 2度とネクタイにカレーのシミを作ったりしないと心に誓い、彼女を抱きしめた腕の力をますます込めた。彼女にはいつも……とりあえず朝以外は、笑っていてほしかったのだ。

 次の朝目覚めると、妻の姿がなかった。たった数時間前にあれほど素晴らしい時間をすごしたというのに、彼女はいなくなってしまっていた。
 僕は狂ったように彼女を探し回った。彼女はキッチンにもバスルームにも、そしてトイレにもいなかった。妻は消えてしまった。
 僕は、カレーうどんと、会社の女の子に逆恨みした。お前らのせいで、僕の愛する人がいなくなってしまったじゃないか。ああ、どうしてくれる? この空虚な僕を。
 だらだらと涙を垂れ流しながら(僕は妻のように美しくは泣けない)、それでも僕は妻を捜し続けた。ベッドの下、冷蔵庫の中、ゴミ箱をひっくりかえしたりもした。清潔好きな彼女がそんなところにいるはずもないのに。
 最後にクローゼットを開けた。いつもだったら、彼女がここからネクタイを取り出して、涙を流しながらも天上の優しさで、ネクタイを巻きつけてくれているはずなのに。そう思うと、余計に涙があふれて仕方がない。
 そして僕は気づいたのだ。見慣れないネクタイに。
 なんだこれは? 僕は緊迫した今の状況を一瞬忘れ、そのネクタイに見入った。こんなネクタイ、見たことがないぞ。もちろん買った記憶もない。でも明らかに新品で、そのくせなぜだか懐かしいような、そんな印象の。
 するとそのネクタイがウィンクしたような気がして、僕は目をこする。もちろんネクタイに目なんてくっついていない。
 そんな僕に、ついにネクタイはくすくすと笑い出した。いやだ、あなたってば。まだ気づかないの? 私よ、私。妻の声だ。僕は唖然としてネクタイを見つめる。
 あなたと離れるのが悲しいから、私ネクタイになってみたの。どう? なかなか良いアイデアでしょ? 彼女はいたずらっぽく笑う。そんな彼女の無邪気さに、今までさんざっぱら号泣していたはずの僕も、ついつい吹き出してしまった。
 そうだね、本当にナイスアイデアだ。まったく、君にはかなわない。
 僕はちっちゃな布っきれになってしまった妻をそっと撫でる。彼女はくすぐったそうに身をよじらせた。
 これで私とあなたはいつも一緒よ。女の子に消されてしまう心配もないわ。
 本当にその通りだ。僕は爆笑した。これからはいつだって君と一緒だ。
 僕はいそいそとスーツを着込むと、妻を首に巻きつけた。彼女はくすくす笑いのしっぱなしだ。
 ただし1つだけ困ったことがある。
 なにかって、僕はもうこれ以上、仕事で恥ずかしいミスができなくなってしまったのだ。だってそれもこれも全て妻にお見通し、なのだから。


変てこTOPに戻る