天国

 恋人とデートしていたら、ビルの谷間に古ぼけたエスカレーターを見つけた。
 そっけない灰色のビルとビルの間、本当だったらゴミ箱が並んでいて、鼠がさささと走り抜けていくようなそんな空間に、薄汚いエスカレーターが高く高くそびえている。どこまで伸びているのか、肉眼では確認できない。そしてそれはあろうことか動いていた。ご丁寧に放送までかかっているのには驚きを越えて笑い出しそうになった。「お子様をお連れのお客様は……」。
 私にはこれを作り上げた人の意図がさっぱりわからない。ぽかんと見上げることしかできない。
「おもしろいね、こいつ」
 ところが傍らの恋人が静かにつぶやくと、私も急激にこのエスカレーターをとてつもなくおもしろいもののような気がしてきた。うっとり彼を見上げると、
「ねえ、瑞乃。ちょっと乗ってみないか?」
 恋人はにこにこと目元だけで微笑む。ああ、どうして断ることができようか。
 お子様をお連れでない私たちは行儀よく並んで、エスカレーターにそろそろと乗った。ウィ……ン。かすかなモーター音。手垢に汚れた赤いベルトを、しっかりと掴む。
「知ってる? 瑞乃」
 私の後ろに並んだ恋人が、耳元にそっとささやく。
「関東と関西じゃ、並ぶ方向が逆なんだよ」
 私たちは特に急ぐことがないので、2人で縦に並んで、左側のベルトにつかまっている。右側はお急ぎの方のために空けておいているのだ。このエスカレーターにお急ぎの方が乗るのかどうか、という問題は置いておこう。
「僕たちはこんな並び方。さて、いったい日本のどこらへんから、並ぶ位置が逆になっちゃうんだろうね」
 恋人はくすくすとさも楽しげだ。私もなんだか楽しい気分になる。
「そうだ、今度2人でそれを判明する旅に出ようか」
 それはとても良い思いつきのように思った。私は何度も頷いた。とんでもなくばかばかしくて、暇を余した恋人どうしにだけ許される、こんな素敵な旅、他にあるだろうか?
 エスカレーターは私たちを乗せて、ぐんぐんぐんと上昇していく。風が強くなった、と思った瞬間、両側のビルが眼下に消え失せていった。もはや私たちの視界を阻むものは何もない。
 ここはいったい地上から何メートルの高さなんだろう? ちょっとだけ不安になって、恋人の手をぎゅっと握った。
 私を不安にさせる理由は、ただ高いからだけではない。このエスカレーターときたら、「のぼり」だけで、どこにも「くだり」がないのだ。一方通行。こんな遠くに来てしまって、私たちはどうやって地上に帰ればいいんだろう?
 恋人に訴えると、彼はこともなげに微笑んだ。
「なんだ、瑞乃。そんなの簡単さ。このエスカレーターの速度より速いスピードで駆け下りていくだけでいいんだよ」
 高校時代、陸上部だったというあなたはそれでいいかもしれないけれど。
 私はやっぱり不安で、彼の手を放せない。
 そんな私に恋人は目元を和ませて、くしゃくしゃと頭を撫でてくれた。それに少しだけ安心して、そっと微笑んでみた。そうだ、エスカレーターより素早く、だかだかだかっと駆け下りてしまえばいい。ちっちゃなころ、何度もそんないたずらをした。そう、子どものときだってできたことじゃない。
 肌寒さだけはどうしても消えなくて、はくしょいとくしゃみが出たけれど。つられて恋人までくしゃみをして、私たちは笑った。
 エスカレーターはぐんぐん上っていく。おそるおそる見下ろすと、地上の人々が髪の毛の先ほどの大きさ。車だってマッチ箱ほどもなく。建物がようやくマッチ箱くらいなのである。
 ひゃあ。ずいぶん高いところまで来てしまった。そろそろ雲のほうが近いんじゃないか?
 ああ、このエスカレーターはどこへ向かっているのだろう。エスカレーターが止まった先には何があるというのだろう。こんな高いところに、ほんとうに何かある? 私にはとても考えられない。そんな高い建造物。
 恋人はそれでも静かに笑い続けている。ふんふんと鼻歌さえ歌いながら。
「ねえねえ瑞乃、ほら見て御覧。向こうのほうに見えるの、あれって、海なんじゃない? あのちっちゃく光っているとこ」
 ああ、でも、私は彼のこういうところが、たまらなく好きなのだ。
「すごいねえ。良い景色だねえ」
 泣き出しそうになるのをぐっとこらえた。だって恋人の気持ちに水を差したくなかったから。恋人は少年みたいにはしゃいでいるのだ。
 やがて私たちはついに手を伸ばせば雲に届くところまで来てしまった。
「ねえねえ、本当に私たち帰れる?」
「だから言っただろう? 瑞乃。エスカレーターの速度より速く……」
「私、こんな距離を、そんな速さで走る自信、全然ないよ」
「実は僕もだよ。はは」
 ああ、憎らしいあなた。いじわるなあなた。どうしてこんなときでさえ笑えるの? 私は怖くて仕方ないってのに。
 それなのに私は彼のことがこんなにも好きなのだ。
 ねえ、あなたは? あなたは私のこと、好き?
「当たり前じゃないか。どうしてそんなこと急に聞くの? 変な瑞乃」
 にこにこと微笑む恋人。私はそれにちょっとだけ安心して、そっと微笑んでみる。
 エスカレーターは私たちを乗せて、まだまだ上昇し続ける。恋人は私の手を握って、ふんふんと鼻歌を歌っている。


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