娘と

 娘にせがまれて、夕暮れ散歩に出かけた。そろそろ夕飯の準備をせねばならないと言うのに、誰に似たのか言い出したら聞かない娘に育ってしまった。
 お互いの手をきちんと握って、近所の公園まで歩く。子どものペースで歩くもので、その道のりは果てしなく遠い。娘の手は小さくて、それなのに力いっぱい私につながれていて、私は安心感よりもかえって強く強く不安を感じてしまう。あまりにも小さすぎるその手は、今にも壊れてしまいそうで。秋の夕暮れの中でひどく不確定な存在なのが娘であり、それを私に知らせてくれるのが彼女の小さな手の平なのだ。
 娘はコスモスを見つけてはむしり、赤とんぼを見つけては後を追いかけようとする。季節外れの蟻を見つけようものなら、わざわざその行列の上で行進してみせる。娘の靴の下で無数の命が消えていく。
 私は「こら、だめですよ」なんてたしなめながら、特にそれを問題視していなかった。子どもに命の概念を教え込もうとしたって無駄だ。もしそれを教えるならば、まさしくこういう殺戮を重ね、今まで動いていたものが動かなくなることを体験として身に着けるのが一番だろう。だからこそ私は娘を止めない。結果、我が家から公園までの道筋に累々と重なる死体たち。心の中でそっと手を合わせる。
 公園に着いた途端、娘は私の手を振り払って飛び出していった。他のお友達はもうとっくに帰ってしまっているのだろう。私と娘だけしかいない夕焼けの公園。
「おかあさん、見て見て、これ」
 ブランコに腰掛けてぼうっとしていると、娘がほっぺたを真っ赤にして私の元へ来た。その小さな手にはキリギリスが一匹。
「捕まえたのー」
 あらまあすごいわねえ、そう応じる間もなく、娘はキリギリスの足をもぎとった。私が驚くのを見てさらに勢いがついたようで、まずは右後ろ足、次に左、次に前足を右左。最後にご丁寧に羽根までもぎ取って、ぽいっと地面に投げ捨てた。
 そうして娘はひどく機嫌良さそうに、いひひと笑う。
 こら、そんなことしたらかわいそうでしょう。さすがの私も怒ろうとしたが、その時にはもう娘は走り去っていた。
 はらはらしながら見ていると、今度は紅葉も美しい桜の木に殴る蹴るの暴行。それだけじゃ飽き足らないらしく、そばにあった尖った石ころで、樹皮を傷つけ出す。
 私は慌てて彼女に走り寄った。後ろから羽交い絞めにして、そんなことしちゃだめよ、注意する。娘は口だけ「はぁーい」とよいお返事をすると、私の両腕を渾身の力で振り払い、またもや遠くへかけていく。そのせいで私はしこたまに尻餅をついた。
 ため息をつきながら彼女を目で追うと、次はしきりに草むらから飛び出すバッタの類を捕まえては、羽根だの足だのむしりとり、地面にぽい。それを繰り返している。
 おとなしくなったと思ったら、今度は蟻の巣を壊して、なにやらニタリニタリと笑っている。
 複雑な顔で見やる私に気づくと、「おぉーい、おかあさん! 蟻ってばバカだよー! ぽろぽろ死んでくの、おっかしいねー!」無邪気に笑う。そっと後ろに立ってみると、娘は蟻の手足をやはりちぎっては投げちぎっては投げ、していた。
 「ちょっと、かわいそうなんじゃない? 瑞乃ちゃんもこんなことされたら、きっと痛くて悲しいよ」
 脅してみる。すると彼女は黒目がちな目をくりくりさせながら、こう言うのだ。
「痛いのかなあ?」
「そりゃ、痛いでしょう」
「虫でも?」
「虫さんだって、痛いわよ。きっと」
「じゃあ……人間は?」
 言うまでもない。笑いながら、娘を諭そうとして、ふと気づいた。
 気づいてしまった。
 娘はじっとこっちを見つめている。小さな手の平には先ほどの尖った石が再び握られている。

 ああ、どうしよう。私、子どもを生んだことなんて、ない。

 今まで私の娘だった少女は私をじっと見つめていたかと思うと、その目をふと和ませて、こう言うのだ。ねえ、おかあさん、私、人間で試してみたい、と。こうも言うのだ。
 おかあさん、試してみていい? と。
 夕暮れに少女の影がぐぅんと伸び、私の目の前は真っ暗になった。


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