糸巻き

 近所を散歩していると、1人の園児に出会った。見覚えがあるスモックにチューリップ型の名札。きっと娘が昔通っていた保育園の園児なのだろう。
 彼はうつむいて、ぼそぼそなにやら呟いている。よく見るとその手が奇妙にくるくると円を描いている。見るんじゃなかったか? ちょっと後悔しかけたとき、ちょうど彼がこちらに気づいた。
「よう」
 右側の頬だけでニヒルに笑う園児。彼は立ち止まって明らかにこちらを見ている。しかし手の動きだけはくるくると止まらない。
 私にこんな小さな知り合いはいなかったはずなのだが、とりあえず挨拶には挨拶を。
「こんにちは」
 満足げに頷く園児にもう1度会釈して通り過ぎようとしたところで、彼の声が私の背中に絡み付いてきた。
「あーあ、まいったまいった。俺はどうすりゃいいんだ?」
 明らかに私を意識しているように思われる。面倒なことは嫌なんだ。それでも無視しようと試みると、
「うぅー、えへん、えへん。ごほごほ」
 わざとらしい咳払い。やれやれ。私は観念した。
 振り返ると、園児は象を模した小さなリュックを背に、また、ニヤリ。そしてその小さな手はやはりくるくると回り続けている。私は「いーとーまきまきいーとーまきまき」の手遊びを思い出した。
「アンタ、俺のこの手の動き、気になってるだろ?」
 図星を指されて、私は無言で頷く。園児は「そうだろ、そうだろ」とまた満足げ。
「よし、ちょっと俺の話を聞いちゃくれないか? アンタどうせ暇なんだろ?」
 またもや図星を指され、私は素直に彼の言うことに従うことにした。
「俺、実は今、すっげぇ悩んでんだよ」
「きみ……みずのくん」
 私は名札をそのまま読み上げた。
「一体どうしたってんだい? まだそんなに若いのに」
 園児はため息をつく。
「若者の悩みといえば、古今東西ただひとつ、恋の悩みに決まってるだろ?」
 ずいぶんませた保育園児だ。
「俺な、そう、ちょうど先週だよ。隣のクラスの里佳ちゃんに、愛の告白したんだよ」
「ほう、それで振られたと言うわけかい?」
 園児の身の上話など、とっとと片付けたい。そんな私の言葉に、彼は明らかに気分を害したようだった。
「アンタ、どこに目をつけてんだよ。俺みたいな男のフェロモンを燐粉みたいに撒き散らしてるような若者が、そうそう振られるわけないだろ?」
 フェロモンね。
 あきれる私を尻目に園児はその悲しい恋物語の続きを語り出す。
「ところが、ところがだよ。俺は気づいちまったんだ。彼女は……里佳ちゃんは、俺の運命の女じゃなかったってことに」
「ほう、それはどうしてだい」
「ばっか、こういうのは感覚だよ。感覚。まあアンタみたいなおっさんに言ってもわからんかもしれんな」
 そして園児は里佳ちゃんに魅力を感じなくなった理由を、こと細かく私に教えてみせるのだ。
 例えば、里佳ちゃんがいつもその短いスカートからパンツをはみ出させていること。……つきあう前はたまんねえってついつい前かがみ状態だったんだけどな。やっぱり色気っちゅーのは、チラリズムだよ。チラリズム。あんなにたくさんはみ出してたら、色気どころの話じゃねえやな。見てるこっちが赤面しちまう。
 それに里佳ちゃん、「きらきら星」がお歌の中で一番好きだなんて言うんだ。まったくわかっちゃいないよな。あんなおもしろみもなんもない。だいたいあの歌にはソウルがねえ。歌と言えば、やっぱあれだよ、あれ。
 ここで彼は歌ってみせた。
「いーとーまきまきいーとーまきまき、ひいーてひいーてとんとんとん」
「で、君は、その歌に合わせて、手を動かし続けてるってわけだ」
 そう、彼の手は、こうやって話し込んでいる間も、常に円を描いてくるくる回り続けているのだ。すると園児はまた皮肉っぽく笑う。
「ちっちっちっ、なーんもわかってねえな、アンタ」
 彼はそう言うと、その円の動きをますます激しくしてみせた。
「これはな、そんな簡単なもんじゃねえんだ。お遊びじゃねえんだよ、俺のやってるのはな」
「ほう、だったらなんだい」
 園児はしたり、とばかりに、目を細める。
「これはな、糸を巻いてるんだ」
 まあ、そうだろうね。
「ただの糸じゃねえよ。あれだよ、運命の赤い糸ってやつさ」
 ところがどうしても私には、赤い糸なんてどこにも見えない。それを彼に訴えると、「これだから親父はよ」なんて舌打ち。
「アンタみたいな心の穢れたオトナには見えねえかもしれないけど、俺には確かに見えてんだよ。俺の小指から伸びる真っ赤で細―い糸がよ」
 そこで彼は悲しそうに肩を揺すった。
「俺はな、一週間前には、俺の糸はきっと里佳ちゃんにつながってるって、そう思ったんだよ。やっぱり、こんな長いものの先を探すなんて、保育園児の俺には途方もないことに思えてな」
 ため息をつく。
「つまり妥協したってわけさ。『こんなとこだろ』ってな」
 少しだけ胸を突かれた。
「だけど、やっぱり違ってた。それを里佳ちゃんに告げるのは、愛を伝えるときより辛かったよ」
「ま、まあ、若いうちは、恋の失敗のひとつやふたつ……」
「だろ!?」
 私の言葉に園児は一転、目を輝かせた。その手で絶えず見えない糸を巻き続けながら。
「でももう次の里佳ちゃんを生み出したくないんだよ、俺はよ。あの時の里佳ちゃんの寂しそうな目と言ったらよお! だから今度は間違えないように、ちゃーんと糸の先を捜すことにしたんだ」
 どうだ? えらいだろ? そう言いたげな園児の態度を、私はやっぱりうっとうしく思わずにいられない。
「ああ、ずいぶんと長いこと時間を食っちまった」
 園児は言うだけ言って気がすんだらしく、急に慌て出してみせた。
「俺にはあんたみたいなしょぼくれた親父の相手をしてる暇なんかないんだよ。じゃあな、あばよ」
 それだけ言い残すと、園児はまたぶつくさ言いながら、糸を巻き巻き、歩き出した。もう私のことなんて振り返りもせず。
 若いんだから、そう焦ることないのに。
 ひとりごちる私の小指から、一瞬だけど糸が……それも赤い糸が伸びているのが見えたような気がして、慌てて目をこすった。
 こんなもの、見えないほうが幸せなんだ。
 私は手をはさみの形にすると、小指の先を、ちょん、と断ち切った。


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