誓い

「あのぉーすいませーん」
 コンビニで肉まんを買っての帰り道。女の子の声に私は振り返った。
「お願いがあるんですけどぉー」
 そこには私とそんなに変わらないくらいの年の女の子が、困り果てた顔をして立っている。その子の胸には柴犬がちんまりと抱かれて、これまた困った顔をしていた。
「は、なんでしょうか?」
 答える私の息が白い。少しだけ肉まんを心配する。
 彼女はよっこいしょ、と、柴犬を地面に下ろした。リードでつながれた犬は、所在なさげに彼女の周りをうろうろとする。それにしても見れば見るほどしょぼくれた顔をした犬である。
「これなんですけどぉ」
 彼女はニットのポシェットからなにやら紙切れを取り出した。
「はあ」
 素直に受け取ってしまって、後悔した。その妙に薄っぺらい紙っきれにはこうあったのだ。
「婚姻届」。
「あの、こ、これ、な、なんなんです?」
 当然私はうろたえる。見知らぬ人にこんなものを差し出されるいわれなんてないし、そういえば現物を見たことだって初めてなのだ。
「えぇー、見てわかんないんですかぁー? だからぁ、書いてあるでしょー? 『こんいんとどけ』ってー」
 それはわかってる、それはわかってるんだ!
「だから、なぜ、こんなもんを、初対面の私に渡すんですか?」
 私の怒鳴り声に、柴犬がびくんと飛び上がった。つくづく情けない。
「えっとぉ、私たちのぉ、証人になってほしくってー」
 証人。あまり語感のよろしくない言葉である。どうやら私の辞書には「証人」と「借金の保証人」がごっちゃになってインプットされてしまっているようだ。
「……どういうことなんでしょう?」
 よくよく見れば、婚姻届のほとんどは既に書き込まれていた。「妻になる人」欄に「相沢瑞乃」。これが彼女の名前なのだろう。そして、その彼女のお相手は……私は「夫になる人」欄を見て、2度目の後悔をすることになった。
「……ペ、ペス?」
「あぁー!」
 瑞乃は急に目を輝かせ、はしゃいだ様子で言った。
「よくわかりましたねぇー、この子の名前―」
 ……やっぱりこの柴犬のことだったか。
 柴犬は相変わらず困った顔で、くぅんと首をかしげる。その様子に瑞乃が「きゃあああ! かわいい!!」と、後ろから彼(なのだろう、きっと)を羽交い絞めにした。柴犬はますます困った顔をする。
「私たちぃー、こんなに仲良しなんですぅー」
 瑞乃はペスを後ろから羽交い絞めにしたまま、言う。
「愛し合ってるんですぅー」
 瑞乃にぐしゃぐしゃに抱きつかれているペスは今にも泣き出しそうに見えた。
「だから結婚しようとしたのにー、みんな反対するんですよー! ひどいでしょお?」
 ひどい……のかな?
「みずの、もう、ハタチだしー、結婚するのに親の承諾とかいらないしぃー。だから、勝手に婚姻届だけ出しちゃおってそう思ったんですー」
「ところでペスは何歳で?」
「3歳! でも人間で言えばもう20代後半くらいだからー、問題ないしぃー」
 20代後半なのに、こんなにも情けない男で、彼女はいいのだろうか? 私は的外れな心配をした。
「でもねー、困ったことがあるんですぅー……」
 瑞乃はペスに抱きついた格好で肩を落とす。ペスははじめっから肩を落としきっているように見える。
「その裏、見てくださいぃー……」
 私は折り畳まれた裏っかわを見てみた。そこには「証人」という欄。婚姻届にこんなものがあるなんて全然知らなかった。案外めんどくさいものだな、と、ちょっとだけ感心。
「私たちぃー、パパにもママにもおじいちゃまにもおばあちゃまにも愛ちゃんにも裕子ちゃんにも反対されちゃっててー……誰も証人になってくれる人がいないんですぅ……」
 ペスがくぅんと泣く……、いや、鳴く。
「ペスには文字が書けるようなお友達いないしぃ……」
 憔悴しきっている瑞乃に、私はおずおずと声をかけた。
「……で?」
 瑞乃はペスの両足を持ったまま、きょとんを私を見上げる。
「私に、証人になれと?」
 瑞乃の顔がまたもや輝いた。
「そうですぅー! そうなんですぅー! どうか、お願いです! 私とペスのキューピッドになってくれませんかぁ?」
 私はぽりぽりと頭をかいた。
「いやぁー……そうしてあげたいのは、山々なんだけどさ」
 瑞乃とペスが不思議そうな顔で次の言葉を待つ。こうして見ると2人(?)の顔は、どことなく似ているような気もする。
「この『証人』ってさぁ……成人してないとダメなんじゃないの?」
 瑞乃がはっとした。ペスはといえば、相変わらずしょぼくれている。
「ごめん、私まだ19歳なんだ」
 うわああああああん!! ようやく親切な人に出会えたと思ったのにいいっ!! 瑞乃が床につっぷして泣き出すのに、ペスがくぅんと前足をかけた。
 弱ったなあ。
 号泣する瑞乃の傍ら、ペスみたいな顔で立ち尽くす私の肉まんは、とっくに冷め切ってしまっているのだった。あーあ。


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