裏技

 男は先週から出張で、週末には帰ってくると言ったのに、未だ、うんでもすんでもなく。
 女は電話すらろくすっぽしてこない男に、寂しさの限界を覚えていた。
 出張前夜、しばらく会えないなんて耐えられない、なんて、泣いて、わめいて、暴れて、そんな女に手を焼いた男は、女をいつも以上に激しく抱いて、その場をごまかした。女は美しくも単純な性格だったもので、すっかり男の指先だとか舌だとか、なによりペニスに騙されて、果たして微笑みまで浮かべて彼の出張を見送る結果となったのだった。次の朝、すりきれて痛いヴァギナに、がにまたにならざるを得ないことすら、女にとっては幸せの象徴となり得たのだ。
 しかし男は帰ってこなかった。

 昔、まだ2人が幸せだったころ、海まで車を走らせたことがある。女はシチュエーションというものにほとほと弱い性質だったもので、サンルーフを開けて、そこから上半身を飛び出させ、潮風をいっぱいに受けることを、この上ない幸せだと感じた。男はそんな女を見抜いて、サザンオールスターズのアルバムをしこたまに車に持ち込んでいた。男のそんな作為に気付かず女はすっかりご機嫌だった。
 今日のこの良き日を忘れないように。女は裸足で波打ち際を歩きながら、ふと見つけた端正な貝殻を拾った。これをおみやげにしましょう。目を輝かせて男にそう提案した。男は汚い臭い貝殻になんぞ、まったく興味がなかったが、そんな女の頭の悪さを愛しく思い、また反対したときのことを考えると面倒くさくなり、適当にうなづいておくことにした。もちろん女はそんな男の物思いにもまた気づくことはない。
 さて、その男は帰ってこないままであるわけで、女の中の女であることを自ら標榜するその女は、やはり自分は寂しさに打ちひしがれるべきだ、と、精一杯考えた。そこで思い出したのが件の貝殻である。涙をぽろぽろ落としながら、女は丁寧にしまいこんであった思い出の貝殻を手に取った。それをそっと耳に押し当てる。波の音がする、と思う。しかし、それは女の心が鳴らしているものに他ならない、ということを、女はやはり気づかないでいる。彼の声まで聞こえてくる、と思ったりもする。あの日、男は本当に幸せそうに微笑んでいた。女はそんなふうに信じている。

 しかしさすがの女もだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。貝殻はただただ存在するばかりで、男のように女を褒めてくれたり、気持ちよくしてくれたり、あっためてくれたりは、決してしないのだ。 思い出なんて、くそくらえ、だわ。ようやく女はそれに気づく。今、ここに彼がいない、ということ。私にとってはそれが問題。
 そしてその真実に気づいたとたん、彼女はのんびりと今の状況にひたっていられなくなった。いつものヒステリーで暴れ出しそうになるのを、なんとかこらえる。どうしよう、もし彼がこのまま帰ってこなかったら。
 女は計算する。
 こないだから、妙に私の手を触ってくる営業の横山くん、冷たくするんじゃなかったかも。
 女は混乱する。
 ああ、なに考えてるのかしら、私。彼が私を捨てるなんて、そんな。とにかく落ち着かなくっちゃ。
 そしてよろよろと箪笥に腕を伸ばした。こんなときこそ私の裏技。あれを使うしかないんだわ。

 女は男の洋服箪笥から、1枚の白い布きれをつかみ出した。俺、よく変だって言われるんだよね。男の照れ笑いを思い出す。思い出しつつ、布の匂いを思いっきりかいだ。特に少しカーブを描いて、すりきれている部分。そこを重点的に鼻に押し付け、胸いっぱいに吸い込む。
 ああ、この匂い。これがあるから、生きていける。
 その布のその部分は、明らかにすっぱいように思われた。恍惚の表情でくんくん匂いをかぎながら、知らず、指先が股間に伸びる。
 ああ、ああ、たまらない。彼のブリーフ。これよ、これさえあれば。

 その晩、仕事に疲れた男がようやく部屋に戻ったとき、女が自分のブリーフをおかずにオナニーをしている現場に突入することになるわけだが、それはまた別の話である。


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