ちっそくせっくす

 いつでもポーチの中にある、アルミでできた小さな包みたち。さらさらと中身を喉に流し込むと、なんとも言えないひんやりとした感覚ともに、すぅ、と溶けていくのがわかる。もしこれが温かみを伴っていたら、私は別の意味で依存してしまっていたことだろう。
 これはこんなにも冷たい。だからこそこの上なく優しいのかも、しれない。

 レズビアンかと問われたら違うと思う。かといってバイセクシュアルでもない。
 たまたま私に執着し、性欲を感じ、股間の空虚になにか(それはもちろんなんでもよくて、たとえばマヨネーズチューブだとか、携帯電話だとか)を 埋め込もうとする相手が今回は女という性の持ち主だった、というだけだ。
 私は常にそういう対象を必要としていたし、果たしてその相手には、深い感謝の念を抱く。
「あなたのこと愛してるの」
 そのくせ、こう言われるたびに追い詰められた気分になるなんて、まるで私、男みたいだ。 男とか女だとか、そういうのはどうでもよく、私はただ体温の存在が必要なだけだというのに。
 今、私のそばにいる女の名は直子という。
 別にそれが「直子」である必要はなかったが、さしあたって手の届く範囲にある暖かいものが彼女だったから。
 今のところ彼女に去られてしまうのは、ちょっと不具合がある。
 それで、きりきり痛む胃を市販の薬で抑えながら、私は彼女と離れられずにいるのだ。まるで直子の過剰すぎる熱を冷まそうとするように、私はその粉薬を胃に流し込み続ける。

 必要なものが、必要なときに、必要なだけ、摂取できる。これは幸せの第一歩。 私は自分がそういう立場であるとき自身の幸せを疑わないし、その幸せを与えてくれる相手を少なくとも軽んじていないつもりだ。
 でも、ただそれだけじゃないか、と、言われるのはなぜだろう。みんな、私の膣にペニスやらバイブレーターやらキュウリやら突っ込みつつ、なぜだか最後には私を嫌悪した。オナニーはひとりでやっていてくれ、と言うことらしい。
 その度に私は激しく目をしばたかせることくらいしか不可能だ。例えるなら、まさに今から味わおうとしていたアイスクリームを地面に落としてしまった子どものように。一瞬後に悲しみが襲ってくるのも、また同じ。
 どうして彼ら彼女らは、私を自分の体温だけで生き延びる能力がある人間だと断定してくださるのだろうか。
 むしろ自分がそういう人間であったら、どんなによかったか。
 いつだって恋らしきものは、みじめな形で幕を迎え、その度に私は胃を痛める。 体の不調を訴えずに他人と別れるだなんて、とりあえず私には無理なことで。
 胃薬だけはいつも変わらずさらさらと、夏の廊下のように優しげだ。

 私の六畳半にいそいそと直子が越してきたとき、確かに私は幸福だったように思う。 なぜなら、そろそろジャケットくらい着込まないと生活しづらい季節になってきていたから。 当然、眠るときには新しい毛布が、時には私に汗をかかせることができるほどの、そういう毛布が必要だったのだ。
 彼女はとても女性らしくて、怠惰だったはずの私の部屋は瞬く間に磨き上げられていった。 会社から帰ると当然のように暖かい食事が待つようになった。彼女は、彼女曰く「いてもいなくてもかまわないOL」だそうで、5時にくっきり帰宅できるという恵まれぶりだった。 だからうるさい心配じみたものをすることなく、彼女の手料理を味わう喜びを堪能できたのだ。
 それなのに。
 私は帰宅時に既に暖められている部屋に対して、じわじわとだが確実に、うんざりしてきている自分に気づく。 そんな自分をいつかの男のようだと感じ、そのくせベッドの上では直子に攻め立てられるままに鳴いて、そんな危うい波乗りにも、疲れてきていたのかもしれない。
 直子の手料理を目の前にして、私は既に吐き気さえ覚えていたのだ。

 直子と知り合ったのは、会社の近くの喫茶店だった。
 食にこだわるということをあまりしない性質の私は、昼食はいつも、薄暗くて古ぼけたその店の美味という要素がひとつも見当たらないスパゲティだとかで済ませていた。
 そこにたまたま現れたのが、直子。奇妙にリボンばかり大きい制服姿に、髪の毛を軽くまとめていて、それなりに美しい若いお嬢さんといった雰囲気の彼女は、私と同じくこの近くの会社で働いているという。
 今日、寝坊しちゃって、お弁当作れなくって。彼女は初めから人懐こく私に話しかけてきた。
 いくらまずくても立地条件によって昼には満席になる喫茶店。ご相席よろしいでしょうか、というウェイトレスに頷かなかったら、果たして私は直子と肌を合わせていなかったのだろうか。このくだらない仮定の果ての私は今と比べて、幸せだったのか、そうでないのか。
 直子なら言うだろう。これは運命なのよ、と。
 もし運命なんてあるとしたら、私のそれはくそったれだ。
 うそ、運命なんてないわ。私ね、あのお店に入ったときから、あなたに目をつけてたの。あなたと相席できるように店員さんに頼んだんだよ。微笑う直子。
 でもね、あなた、あんなお店のご飯ばかり食べてたら、そのうち体の調子崩しちゃう。私、あなたに毎日お弁当作ってあげたい。
 彼女が私の部屋に転がりこんできたのは、その後まもなくのことだった。

「あなたのこと愛してるの。一生、離れたくない」
 直子はそれを証明するかのように、毎晩、執拗に私の体を愛しんだ。右の乳首を舌でつついて、舐め上げて、吸って、でも左はおあずけ。 理由は、私が左乳首のほうがより神経が鋭敏だから。そういう執拗さを持って私を弄び続けた。
 時に苦痛さえ覚えつつ、彼女が私を求めていることだけは理解できて、最初のうちはそれを光栄にすら思っていたけれど。
 膣に指先だけ入れて、すぐに出す。陰毛にふわふわと息を吹きかける。双丘の周りで手の平を遊ばせる。そして、また、指先だけ挿入。
 狂いそうになりながら、自分の意思を越えたところで、私は腰を浮かせる。それは直子の思うがままに上下する。 滑稽なダンス。体液はとっくに溢れ出してシーツに水溜りをこしらえている。一瞬でも早く私に何かを埋め込んで欲しい。今それができるのが直子だけという事実。これは手放せないと体が叫ぶ。
 しかし暴走する体に精神が追いつかないでいた。
 ふいな残業で疲れ果ててタクシーで帰った夜。直子はコタツに肩まで入って泣いていた。その前には手のつけられていない冷め切った煮魚。 私は儀礼的に彼女に謝る。ごめんなさい急に仕事が。本当はどうでもいい、早くシャワーを浴びて寝てしまいたい。なのに直子はそれを許さない。どうして電話の1本も入れてくれないの? そうして私は彼女に待ちぼうけを食らわせた罰を受けなければいけない。彼女はまず噛み付くような接吻を私に与える。熱い舌が体内で暴れ回る。眠い。
 いつも以上の執拗なセックス。いやいやだったはずなのに、私の体はやっぱり奇妙に踊ってしまう。そんな自分が憎い。こんな日こそ、直子はおとなしい毛布でいなければならないのに。そう思ってしまう自分がなにより憎い。
「私をひとりにしないで。ねえ、お願い」
 今までそれは私の台詞だったはずのに。脚の付け根に芽吹く脆弱を舌で攻め立てながら、直子は目線だけで訴えかけてくる。それに頷いたり否定するかわりに、私は足首を痙攣させる。辛い問答は常にセックスで後回しにされていくものなのだ。直子の唾液と私の体液がぐちょぐちょと混じりあう。例えばこれが床に落ちたとして、その雫は果たして私の物なのだろうか。それとも直子の?
 そんなことを考えてしまう自分自身、なんだかんだ言って随分直子に毒されたものだ、と、苦笑せずにいられない。ここまでも私という人間は一人で生きられないのか。

「寒いの?」
 ふいな直子の問いかけに面食らったのは、夜毎に肌を合わせて2か月ほどたったころだったか。
「ねえ、寒い?」
 朝から散々お互いを貪り尽くした日曜日、情事のあとに煙草を吸わないと具合が悪くなる私は、裸のままコタツにもぐって足りなくなったニコチンを全身で摂取しているところだった。寝煙草を異常なほどに嫌う直子のせいで、いつもこんな間抜けな形でセックスの余韻を体内から追い出さなくてはならない。
「鳥肌」
 剥き出しの背中に直子の手の平が乗る感触。それが大して暖かくもないのは、私が充分に暖まっている証拠だというのに。どうしてそういうつまらない嘘をついて、いつも私の気を引こうとするのか。そう。既にこのころから私は彼女に飽きかけていた。
 直子は尚も力を入れて私の背中をぎゅうぎゅう押した。不快感がじわりと駆け上っていく。
「私の手の平とあなたの背中、もう隙間なくくっついてるよ」
 その声色で余計に嫌な気分になった。彼女お得意の自己陶酔。勝手に陶酔してくれているだけならまだしも、それを私に押し付けるところが許容できない。だから私は2本目の煙草に火をつけることにする。
「隙間がないなんて変だよね。だって私とあなたは元々違う物体なのに」
 なおも彼女は手の平と一人語りとをやめようとしない。さて、私の背中の向こうでは、いったいどれほど自分に酔った表情をしているのやら。
「例えばね、今、誰かが、私の手の平とあなたの背中の間にナイフを入れるとするでしょ。そうしたら、私たち、別の物体のくせに絶対二人とも怪我をすることになるよね。二人の血がいっしょに流れて、それがどちらの血だとか全くわからなくなるよね」
 私を散々不快にさせていた手の平が、すっと離れた。後ろの体温が立ち上がった気配。けれども私は意地でも振り返らない。

 規定の量をはるかに超えた胃薬も、そろそろ効果をなさなくなっていた。病院には行けない。万一直子に通院が気づかれたらと思うと、それだけで気が重い。
 自分の腹が痛むより他人の腹が痛むほうがより痛い、だなんて、私から見ると、直子は既に人間ですらない。
 私は生まれて初めて自ら他者を切り離そうとしていて、それは少なからず驚くべき出来事なのだった。
「直子は私のどこがいいの?」
 切り出すきっかけは何気ない風を装わなければならない。さもないと警戒される。私は今までの恋人たちが自分にそうしたように、直子に話しかけた。
 からあげと菜の花の辛子あえと味噌汁と米を、なんとか胃に流し込んだ後、鼻歌とともに食器を洗う直子の背中に、おずおずと問うた。
「一体、私の、どこが?」
「ばかね、なんでそんなこと聞くの?」
 直子は朗らかだった。
 肩甲骨をてきぱきさせながら食器を洗う後姿は、それでもそれなりに魅力的に思える。ほのかに漂う洗剤のにおい。彼女はこちらを振り返りもせず、懸命に後片付けをしている。
 私は続く直子の台詞を夢想した。人を好きになるのに理由なんてないわ、か? それとも、あなたはとても素敵な人よ、か?
「そんなの、あなたがかわいそうだからに決まってるじゃない」

 あの日、直子は手の平を離すと、裸のままベッドから抜け出した。不機嫌をどうにか隠そうと何食わぬ顔で煙草を吸う私の脇を通り抜けて、そのまま台所に向かう。こちらを一度も振り返りもせず、すたすたと。
 いったい何をしようとしてるんだ?
 怪訝に見守る私をよそに、直子はキッチンバサミを掴んだ。嫌な予感。
 うかつなことに、指の間でほったらかしていた煙草の吸殻がコタツの天板にぽとりと落ちたのに、一瞬気をとられてしまった。慌てて直子に目線を戻したら、そのときにはもう彼女の髪が半分消えていた。私は思わず立ち上がっていた。
「何してんの、あんた!?」
 直子はひどく無機質にもう一束、自らの髪を切り落とした。リノリウムの床に、ばさっと髪の束が落ちる。短い何本かは、まだちらちらと宙に舞っている。そして全裸の直子の後姿。私の体は恐怖に浸された。
「ねえ?」
 明るく呼びかけられて、ぞっとした。直子の体が軽く震えて、彼女がこちらを振り返ろうとしているのを知り、叫び出しそうなのを懸命にこらえる。
 果たして直子はゆっくりと振り返った。やはり笑っている。まっすぐに目を見られて、また悲鳴を上げそうになる。
「この、床に落ちた髪の毛って、私なのかな? それとも、もう、別の物体?」
 あなたは、どう思う? そう続けて、無邪気に首を傾げる。
「ばかな私にはね、このざんばらの髪の毛で生活するのは、ちょっと恥ずかしいから、明日、会社を休んで、美容院に行ったほうがいいってことくらいしか、わからないんだけど」
 ねえ、あなたはどう思う? どこまでが私で、どこからが違うもの? だったらあなたはどこからどこまでが、あなたなの?
 私が胃薬を必要としだしたのは、確かこの日からだったように思う。

「あなたね、私といっしょにいると、どんどんかわいそうになっていくの。だから私はますますあなたに惹かれていく」
 罪な女だね、と、直子は食器を洗いながら笑い、私は胃薬を買いに薬局に走った日のことを鮮明に思い出していた。
 確かあの後、直子は何事もなかったかのように、さっさと服を着た。そしていつもの手際のよさで床に落ちた自分の髪の毛を掃除し始めたのだ。
 私は目の前の人間が途方もなく恐ろしく、適当に着替えると理由も言わずに部屋を飛び出したのだ。自分の胃が悲鳴をあげているのに気づいたのは、アパートからやみくもに遠ざかって1時間たってから。私は久しぶりに胃薬を購入することを決めた。そうでないとこの恐怖に勝てないと思った。
「私は、あなたよ」
 直子の声はどこまでも明るい。
「あなたって本当にかわいそう。他の人間がいないと自分という存在が確かめられないだなんてね。それも自分だけの『他の人間』が欲しいだなんて。求めないと心もとないのね。さぞ、生きにくいことでしょうね」
 ジャージャーと勢いよくお湯の噴出す音がする。それと食器どうしがぶつかりあう音。その中でも直子の声はよく通る。
「心配しないで。私は、あなただから。私なんて人間、いないも同然。それでもほら、あなたはあなた。どうしようもなく、ね」
 直子はこちらを振り返って、にっこりとした。
「私、あなたのこと愛してる。心から」

 その時、胃袋がひっくりかえった。今まで耐えて耐えて耐えてきたのが、直子の言葉であっさり臨界点に達したのだろう。
 矢も盾もたまらずトイレに駆け込み、腹の中のもの、一瞬前まで直子の手料理だったものを全て吐き出そうとした。背後で直子の気配がする。きっと、心配になって、見に来たのだ。
「心配になって」自分で思いついたその言葉に余計に気分が悪くなり、げえげえと喉を鳴らして、ますます激しく嘔吐した。
「あなた、ゲロまで綺麗なんだね」
 直子の夢見るような声がする。どこか遠い場所から。そう、私なんかより、ずっとずっと遠い場所。
「いつも胃薬なんて飲んでるから、もう。ゲロが緑色になっちゃってる。でも、そのせいで、すごく綺麗」
 こいつ、私が胃薬飲んでること、知ってやがったのかよ。苦しさに、涙を滲ませながら、ぼんやりと思う。
「ねえ、もっと見せて、見せて。あなたのゲロ」
 直子は私と便器の間に強引に割り込もうとする。すっかり力の抜けた私は、彼女にされるがまま、ずるずると脇にずれた。
「うわーあ、本当に、本当に綺麗」
 感動しきった声で叫ぶと、あろうことか直子はその両手を、洗剤の香りがする手の平を、ずいっと、便器に差し入れるのである。
 もうやめて。お願い。もう、私を許して。
 私は今はもう苦しさからじゃない涙をぽろぽろと流し出していた。お願い。誰か、私を、ここから解放して。お願い。
「すごい緑色。すごい、綺麗」
 ようやく気づいた。直子は私のことなどなんとも思っていないのだ。自分のことをなんとも思っていないのと同様に。だからこそ、私を愛せる。
 うっとりした瞳で便器から私の吐瀉物をすくい出す女が、今、確かに目の前にいる。吐瀉物が空気に触れた瞬間、狭い個室に濃密な酸味が充満する。私はこんな女など知らない。見たこともない。
 彼女の両手に広がったそれは確かに緑色をしていて……女はそれを嬉しそうに見つめた後、おもむろに顔に塗りたくるのだ。汚物のたっぷり乗った人差し指を唇の間に入れ、ふふ、と笑ってさえみせるのだ。唇にひとすじ、緑の線。
「おいしいし、いいにおい」
 そして女は私をじっと見つめた。緑がまだらになった顔の中、ぽっかり開いたその目は確かに真摯な光を灯している。
 狂っているのは直子じゃない、私だ。最後にそれだけ思って、私の意識は暗いどこかにすとんと落ちた。


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