蝶
今日も空のお弁当箱にご飯をきっちり300グラムずつつめて、それを1000回くらい繰り返してから、僕は僕を待つアパートへと帰ってきました。
僕のアパートはちっちゃな公園のすぐ横にあります。その公園では、よく近所の子どもたちが遊んでいて、そこには若いお母さんたちもいて、僕をとても幸せな気分にさせるのです。幼稚園児たちはこの上なくかわいらしく、お母さんたちはこの上なく美しい。晴れた空はどこまでも高いのです。
僕のアパートの悪いところは1つだけあって、それはバス停からちょっと遠いことです。お風呂屋もコンビニエンスストアも近くにあるのですが、バス停だけどうも遠い。大人の僕が歩いて20分くらいかかります。お弁当箱にご飯をつめる仕事は、立ったままする仕事なので、とても辛い。だけど歩いて20分なのです。僕は、週に3日から5日、疲れているのに20分歩きます。
途中ではコンビニエンスストアに寄ります。僕のアパートにはガスコンロがないからです。僕は1度くらい、お弁当にご飯をつめる以外の料理をしてやってもいい、と思っているのですが、ガスコンロがないことには、それもままなりません。ですから毎日コンビニエンスストアで僕のつめたご飯の入っているお弁当を買って帰るのです。これは少し誇らしいことです。なんせ自分でつめたご飯の入ったお弁当なのですから。
時々僕はトイレに行って、そのまま手を洗うのを忘れてしまうことがあります。もちろんお弁当箱にご飯をつめるのは手袋をして行うものですから、それはあまり関係がない。でもこのお弁当にそんな大きな秘密が隠されているなんて、僕以外誰も知らないのです。これはなんだか誇らしい。
お弁当箱にご飯を1000回つめた充実感に酔いしれながら、帰り道を急ぎます。疲れてはいるけれど幸福です。なんと言ってもコンビニエンスストアには僕のつめたご飯が売られていて、僕のアパートの横にはたくさんの幼女たちがいるのですから。
機嫌よくコンビニエンスストアに向かう僕の視線が、ふと何かを捕らえました。僕の目は一重まぶただけれど、とてもよく見えます。小学校のころから今まで、ずっと2.0です。それをお母さんに言ったら、お母さんはフンと鼻を鳴らし、「アンタは子どものころから、1度も勉強したことないからね」なんて、僕は少し恥ずかしかった。
そのとてもよく見える僕の目が捕らえたものは、蝶々でした。間違いない。僕の目はお母さんを捨てたお父さんによく似ていると言われる一重まぶただけど、2.0なのです。でも夜中に蝶々なんて飛ぶものなのでしょうか? 僕は理科が苦手なのでよくわかりません。僕にわかっているのは、僕の視力が2.0だということだけです。だから間違いなく、あれは蝶々なんだと思います。
夜の闇に溶け込みそうに真っ黒な蝶々が、電信柱にくっついた街灯に光って、きらきらと舞っています。いえ、もしかしたらあれは蛾なのかもしれません。蛾だったら夜でも飛んでいるような気がします。でもあれはお昼にも見たことあるような気がします。そうです。僕のアパートの隣のあの公園で、です。あの公園でよく飛んでいる、真っ黒で大きな、美しい蝶々。間違いありません。あの公園はよく晴れていて、僕はいつも僕のアパートの窓から覗いているのです。
僕はまるで高い熱でも出したかのようになりました。足元がふらふらしてきたのです。そしてふらふらの足のまま蝶々を追っかけ出しました。僕のつめたご飯の入ったお弁当を買うのもすっかり忘れて。あの美しい蝶々を捕まえてやろうと、そう思ったのです。
蝶々を見失わないよう、小走りになります。いくら2.0の視力を持つ目の良い僕でも、蝶々ときたら真っ暗な空に真っ黒に浮いているので、ともすると見失いそうになってしまいます。時々現れる電信柱の街灯が僕の味方です。蝶々は真っ黒なくせに、街灯の下では緑色にキラキラと輝くのです。僕はそれをとても不思議だと思う。
ふいに蝶々がふわりと旋回しました。そこは山田さんちの角でした。蝶々は山田さんちの角を右に曲がったのでした。僕は慌てて、その後を追いかけます。でも僕が息を切らして角を曲がったとき、そこに蝶々はいないのです。
そこにいたのは、幼稚園くらいの女の子でした。
背丈はちょうど僕の腰くらい。真っ赤なスカートをはいたひざ小僧に絆創膏をはっつけています。髪の毛は背中の真ん中ぐらいまでさらさらと流れています。その髪の色が蝶々の色に似ている気が、ちょっとだけ、しました。
その子はニコニコ笑って、僕を見ています。お目目がとても大きいです。僕より大きいです。僕の目は一重まぶたで、だから小さい。でも視力はいいです。小学校のころからずっと2.0です。
女の子の目はどうやら二重まぶたで、まん丸で、睫毛が長いようだ。ぷくぷくした頬っぺたは、ほんのり赤い。唇も頬っぺたと同じ色をしている。そしてニコニコ笑っている。僕はそんな彼女が眩しくて、そう、こんな真夜中なのに、ちょうどあの公園の晴れた日みたいで、思わず目をそらすのです。
彼女はただ微笑んでいました。僕の顔をじっと見ています。
そんなに見つめないでくれよ。恥ずかしいじゃないか。たまらずそう言うと、今度はきゃっきゃっと声を立てて笑い出しました。そのあまりのけがれなさに、僕も思わず笑い出してしまいました。
まったく小さな子どもにはかなわない。そう。僕はいつだって彼女たちには負けてしまうのです。
女の子は言いました。おじちゃん、なんかおかしいね。女の子にそう言われると、確かに僕はおかしいような気がしてきます。途端になんだかおしっこがしたくなってきました。そう言えば今夜は少し冷えます。この女の子は寒くないのだろうか。半そでを着ている彼女を不可思議に思いました。
おじちゃん、私、喉が乾いた。なのに女の子は言うのです。僕は寒いからか、まったく喉なんて渇いてません。それどころかおしっこがしたいくらいなのに。
僕はいよいよ不思議になって、とうとう言ってしまいました。君は寒くないのかい? 僕なんておしっこがもう漏れそうだよ。すると女の子はまた笑うのです。なんで? 今は夏なのに。おしっこだったら、お家を出る前にしてきたから、平気だよ。そう言って、おじちゃん変なの、そうやって言って、笑うのです。
変なのは君のほうだよ。だって今はもう秋じゃないか。その証拠に夜はこんなに寒い。ここまで言って僕はようやく気づきました。そうだ、君はひょっとして、蝶々なんだね。さっきの蝶々なんだね。だから寒くないし、おしっこしたくないし、それに髪の毛が真っ黒なんだ。女の子はますます笑い転げました。私が蝶々? そう言って笑いました。そう言えば彼女のスカートはひらひらしていて、ますます蝶々です。羽のようなのです。
ははーん。僕は頷きます。騙されないぞ。この子はこうやってとぼけて僕をからかおうとしているけど、絶対蝶々なんだ。そうじゃなきゃ、蝶々がいなくなって、代わりにこの女の子が現れた説明がつかない。
それにこんな真夜中に女の子がひとりで立っているなんて、蝶々が夜中に飛んでいることよりありえないことです。半そでのブラウスも、ひらひらのスカートも、真っ黒の髪の毛も、全て彼女が実は蝶々の化身であることの、証明なのです。
ねえ、おじちゃん。そんなことより私、喉が乾いたんだってば。女の子は一転ぐずりだしました。僕は困り果てた。だって蝶々には花の蜜しか飲ませられないじゃないか。僕のアパートには隣の公園しか、ガスコンロさえないのです。
それに僕のおしっこは限界に達していました。もう股間がはちきれそうでした。いくら蝶々とは言え、こんな小さな女の子の前でお漏らしするわけにはいかない。それは教育上よくない気がします。
困り果てた僕は、とりあえず女の子の手を握りました。女の子は素直に僕の手につながれました。僕は時々トイレに行って、そのまま手を洗うのを忘れてしまうのですが、そんなことを蝶々が知るはずもありません。僕のアパートにはガスコンロもなくて、そうだ、砂糖水くらいしか作れないけれど、それでもいいかい? 女の子は黙って頷きました。
こういうわけで僕はしょうがなく蝶々を僕のアパートに持ち帰ることにしたのです。
蝶々は僕のアパートで砂糖水をふたくち飲んだきり、なんだかとてもおとなしくなってしまいました。僕のアパートには裸電球しかない。その光の下で、眠ったようにしてました。おとなしいとまるでお人形さんのようだ。ちょっとだけ心配になりましたが、でも僕はしたくてしたくて仕方なかった、おしっこをすることができたので、そんな小さなことは気にしないことに決めました。
しかも明日は僕のお休みなのです。僕はお弁当箱にご飯を300グラムずつつめて、それを1000回くらい繰り返す仕事はそんなに嫌いでもありませんが、でもお休みはもっと嫌いじゃありません。きっと明日も公園は晴れて、とても美しいでしょう。そこに集まる幼稚園児とそのお母さんと蝶々たち。ああ、なんてこの世は素晴らしいんだ。僕はすっかり上機嫌になって、蝶々といっしょに眠りました。こんな日くらい、蝶々の世話をしたって、バチは当たらないでしょう。僕のお給料はとても少なくて、僕のアパートにはお風呂もないけれど、でも蝶々の1匹くらい飼うことはできます。
それにしても不思議なことだ。蝶々が女の子に化けるだなんて。僕にはちょっと信じられません。でもこれは真実なのです。僕が2.0の目でしっかりと見たのです。
それからずっと蝶々は僕のアパートに僕といっしょにいます。僕は蝶々をとてもかわいがってやっています。蝶々ときたらガスコンロも花の蜜もない僕のアパートがあまりお気に召さないのか、それともただ我儘なのか、黙りこくったまま押入れで転がっていることが多いのだけれど、そして最近ちょっと変なにおいがしたりするけれど(だって蝶々はお風呂に入らないでしょうし、僕はひとり勝手に銭湯に行ってしまいます)、それが僕はちょっと心配なのだけれど、それでも蝶々はいるのです。
だからある日、ようやくお巡りさんがやってきて、小さな女の子がいなくなったけど知らないかいって聞かれたけれど、僕は首を振りました。だって僕の良い視力の目でも、そんな小さな女の子なんて見たことない。僕が知っているのはただ蝶々だけです。
僕は最近おしっこを我慢することがなくなりました。僕の公園は今日も晴れていて美しい。ただ最近晴れた日でも公園でかわいらしい子どもたちや美しいお母さんたちを見ることがめっきり減ってしまいました。代わりにお巡りさんがたくさんいます。あの紺色の制服はあまり公園にはあまり似合わないから、あいつらは即刻どこかに行くべきだ。それが少し不満なだけで、僕と、そして美しい蝶々は、おおむね幸せなのです。